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四神京詞華集/ディスペルへの遠き道(6)
○興福寺(夕)
ごおおおおん。
と荘厳な鐘の音が大伽藍に降り注ぐ。
さすがは都全土を睥睨する大寺院。
そのへんに乱立する梵鐘とは響きが違う。
いい。
すごく、いい。
ここは藤原家興隆の祖大宰相不比等が建立した釈迦を本尊とする由緒正しき彼ら一族の氏寺である。
寺といっても、幾つもの御堂が並び塔が物々しくそびえる大建築群であり、宗教施設というよりむしろ藤原家の基地に近い。
あちこちの門に衛兵が立ち、粛々と歩く僧たちも青学生と呼ぶには眼光鋭く屈強であり、ともすれば額にお灸の跡を刻んだ往年のジェット・リーが如き趣を漂わせている。
後々地下施設に謎の木人を登場させてもいいかなと思っているが、今の所は常識の範囲内においての単なる寺という描写に留めておく。
伽藍の裏手の一角には畑があった。
寺に畑。
自給自足という点では別段不釣り合いというほどでもないが世話をしている人間が不釣り合いだった。
○興福寺・百永庭園(夕)
ダチョウの竜ちゃんの豆絞りが如き頬かむりで畑を耕しているのは、大納言百永である。
しかしこの男、宮中のお勤め以上に商いだの農作業のほうが熱心で、まるで片田舎に居を構えセカンドワークに精を出す個性派俳優のようだ。
(子供は野山でのびのび育てたいんですよね。的なアレ)
??「精が出ますな~。百永卿」
百永に近づく人、いや人だかり。
しかしその『たかり』の部分は明らかに宮中参内時とは種類が違っている。
ヘラヘラとしたチョビ髭の文官の壁は、今は闕腋袍に身を包む冷たい眼差しの随身に交代していた。
だが勿論、その壁の中にいる男は代わってなどいない。
藤原の本拠地に乗り込む左大臣と武装集団。
雅な貴族の庭を土足で踏み荒らすチンピラ豪族ども。
本来は斯様な真似など有りえず、有ってはならず、それゆえに一族縁者から苦言を呈されてもいるが、これも世渡りさと当主百永自ら波風立てぬよう、蘇我左府に限ってのみ無礼千万な例外を許している。
大連「こちらで遊んでらっしゃると伺ってな。何を育てておいでかな?」
百永「花です」
大連「花?」
百永「唐より買い入れた異国の花。上手く咲いてくれるといいのですが」
大連「藤氏長者たるものが酔狂な」
百永「酔狂だから氏長者になれるんですよ。我先に沓を拾って身を興した、祖先のようにね」
大連「ああん?」
大連の唸りに呼応し、ふいに殺気立つ随身の壁。
蘇我と藤原にまつわるかの因縁を想起させるその話題は、今の両家にとってタブーに近い。
はるか昔、乙巳に起きた政変の末裔。
勝者の子孫、百永は依然飄々と種を撒き続ける。
大連「花ごとき戯事なら大目に見ようが、白虎街に居を構え税を逃れ商いを行うは由々しき仕儀。それが大納言の所業なればなおのことだ。文武百官にシメシがつかぬと思わんのかね?」
百永「地元に大きな顔するためだけにあれこれ横流ししている誰かさん達に比べれば、健全な方だと思いますけど」
大連「事の軽重は俺が決めるんだよ、小僧」
百永の顔から薄笑いが消える。
同時に方円陣が解かれ、姿を現す紫袍の者。
光の加減によっては朱にも映る紫の大袖小袖に、金色の装飾。
烏帽子の上に被った礼冠は鳳凰の翼のような設えが見られる。
まるで帝の装束を模したかのごとき、いや最早明らかに模倣している礼服を纏った小男。
声色に威厳はないが、口調には威嚇がこもっている。
眼差しに知恵こそ宿ってはいるが、口元からは知性が抜け落ちている。
体躯はどうみても貧相だが、装いは必死な程に豪壮。
これが、左大臣蘇我大連なる人だかりの本体である。
百永に歩み寄る大連。
肩をいからせて大股で歩くので、装飾がジャラジャラと鳴り、本人もかなり鬱陶し気である。
全く身の丈に合わぬ位に在るもの特有の、実に下品な動きだ。
この男にとっては、己の心の余裕よりも他者への威圧こそが一大事であり、全ての行動原理が
「バカヤロウ舐めんじゃねえぞコノヤロウ」
という痛々しいまでのアウトレイジイズムに基づいている。
そして恐らくこのイタい病気はもう死ぬまで治らないであろう。
大連「いいか。俺に逆らえば殿上だろうが地下だろうがいつでも……」
勢いに任せ大連が腰の太刀に手をかけたその時だった。
一閃の矢がその足元に突き刺さった。
だがそこは大和随一の大豪族。
顔色ひとつ変えず矢の飛んできた方角を即座に睨みつけ、
脊髄反射で威嚇する。
桃の木陰から『穏やかな三つの顔を持つ仮面』を被った僧形の者が、弓矢を携え凝視していた。
随身達が「手前! オジキに何しやがる!」と言わんばかりに、仮面の僧に飛びかかろうとする。
大連「やめろ!」
随身を制する大連。
さすがは藤原家総領百永。
虫も殺さぬ青瓢箪の装いを保ちつつ、影で得体の知れないモノを護衛として飼っている。
常に飄々たる余裕を崩さないのはそれだけの布石を打っているからだ。
仮面の僧のただならぬ殺気、というより妖気を看破した大連はすぐさま笑顔を作って非礼を詫びた。
大連「ああいやいや、すまんね。なにせ根が田舎豪族なもんで喧嘩っぱやくていかん。別に俺は藤原一族とやりあう気はないんだよ。むしろ手を貸してほしいと思っているんだ」
百永「手を?」
大連「倅の有鹿のことさ。実は、姿を消しちまった」
百永「……」
大連「あれは大人しく田舎に引っ込むような奴じゃない。大方白虎街の侠客どもとつるんで身を隠してるに決まっている。大納言……いや百屋さん。有鹿が妙な真似をせぬように、あんたに見張ってて欲しいんだ」
百永「妙な真似とは?」
大連「さあな。若い奴は力を持て余すもんだ。朔の人攫いも蘇我家にとってよかれと思ってやったことだろうが」
百永「地方豪族の情報。随分有益だったでしょうね」
大連「何だ。俺がやらせたとでも言うのか?」
百永「橘不比等はそう思っていますよ」
大連「あんな小物などどうでもいい。俺は殿上人の公達の中じゃあ、人物はあんただけと思ってるんだぜ」
百永「それは、お目が高い」
大連は随身の一人に顎で指示をする。
大連「おい。アレをお渡ししろ」
随身は先ほどとうって変わった殊勝な態度で、幾つかの木簡をうやうやし気に百永に渡した。
木簡にはなにやら土地の名前とそれに連なる人物、役職、さらには布施だの銭だのの数量が幾つも箇条書きに記されている。
百永「なるほど。脱税ですか」
大連「どれも藤原の権勢が届かぬ九国豪族どもの欲徳悪行。いざという時にでも、ご随意に使われよ」
百永「やっぱりやらせてたんじゃないですか。情報収集」
大連「倅自身が集めたものだ。倅のために使ってやるが道理である」
百永「生憎、政にはあまり興味がなくて」
大連「ならばお得意の商売にでも使われい。唐との交易の折は地元の連中、ことに大宰政庁のヒネクレ者共は色々と鬱陶しいだろう」
百永「なるほど。その手があったか。いやさすがは海千山千の蘇我長者」
大連「俺はこれより倅を勘当する」
百永「……と、いうテイですか?」
大連「どう捉えてもらっても構わんよ。なにせこれからは氏長者藤原百永殿が昵懇にしてくれるんだ。安心安心」
百永「不肖の息子さんを勝手に押し付けないでくれますかね?」
大連「まあそういうな。蘇我有鹿はいずれ白虎街を手中に収めるだろう」
百永「……」
左大臣大連はしれっととんでもないことを口にした。
大連「老いさき短い左大臣としては由々しき仕儀だが、これから新たな世を生きる若き大納言殿にとってはこの繋がり、僥倖とは思えぬかな」
最早、大連が百永を蘇我一派に引き込もうとしているの明白だ。
そして百永の本心は……まあ、未だ語る段階ではないだろう。
百永「そうですね。まあご子息とはいずれ肚を割ってお話をする機会もありましょう」
大連「それがいい。親馬鹿だが、なかなかの漢だぞあれは」
用は済み踵を返す大連を、百永が止めた。
百永「そうそう。何故私が庭で畑を耕しているかお教えしましょうか」
大連「どうでもいい」
百永「そう言わずに。木簡の返礼と思って聞いてって下さい」
百永はわざとらし気に手ぬぐいで汗を拭った。
百永「健全な精神は健全な肉体に宿る。自給自足こそ人の本道。日本のコメは世界一、米(マイ)!」
大連「御高説痛み入る」
大連は返す踵を加速させた。
百永「左大臣殿も庭に畑を作られませ。大きな庭に大きな田畑を」
大連「……!」
権力という都の毒に全身を蝕まれていても、さすがは地方豪族いちの傑物。
百永がこれから言わんとしている言葉、いや錬金術といってもいい策謀が、大連にはすぐ予想できた。
ゆえのビックリマークである。
百永「蘇我長者であれば街の一つや二つ、すっぽり入る庭が作れましょう。そこで趣味として耕作を楽しまれよ。余った野菜や米は売って『お小遣い』にでもされるがよろしい。庭で楽しむ趣味ならば、どれだけ稼ごうと『税』は取られませんし」
大連「おぬし……」
大連の三点リーダーは半分驚嘆半分呆れを意味していた。
全く、仮にも日本一の貴族の総帥がとんでもないことを考える。
「どんだけ耕してもここはウチの庭で個人的に楽しんでる趣味なんだから、税金は払わなくてもいいっすよね~」
つまりこれは合法的脱税の極北であり、法律拡大解釈の極限である。
まさに馬鹿馬鹿しいほどの詭弁。
仮に思いついたとしても真っ当な人間ならば当然備わっている、良識というものが必ず阻むだろう奇計。
当然大連とて仮にも一族の長。
ほんのわずかだが、国を傾けぬ程度には欲望を制御しているつもりだ。
新人類(死語)当主たる百永の暴論暴挙なアイデアに付き合う気はない。
大連「ふん。俺をハメるつもりか?」
百永「ダメですかね~? 結構いい考えだと思ったんだけどな~」
大連「貴殿が天下を取ったら好きにやればいい。そうだな。『荘園』とでも名付けてな」
百永「荘園か……それ、イタダキ!」
大連は、これ以上エキセントリック荘園ボーイには付き合いきれんとばかりに随身が作る方円陣の中に入っていった。
再び『人だかり』なる怪物に戻った蘇我左府を見送ると、百永は畑のそばに設えた庭石に腰を下ろし、大連からの賜りものの木簡に目を通し始めた。
いや、むしろ凝視(ダウンロード)に近い。
この血の通わぬ冷徹な眼差しこそが大納言藤原百永の真の顔である。
ふと、木簡を弾く手が止まる。
百永「これは……」
真新しい短冊に記された大宰府からの知らせ。
大連が適当に見繕って混ぜたのだろうその木簡情報に、百永は複雑な気持ちでため息をついた。
百永「さて……どうしたものか」
(つづく)