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四神京詞華集/NAMIDA(9)
【鬼姫の川流れ】
○白虎堀河・上流(夕)
四神京はゆるやかな傾斜地であり、北側の玄武山脈から南の朱雀ヶ原まで、ほとんど誰も気づかない程度ではあるが下り坂になっている。
都の東西には東川と西川なる川が流れており、京内に入ると青龍堀河、白虎堀河という人工河川となる。
水は低きに流れる。
必然的に堀河の流れは北側の上級階層が住む区域から南側の下層階級が群れ成す地域を通るようになっている。
健全な商業区たる東市や寺院の多い都の東側、左京を流れる青龍堀河はさほどでもないが、かの白虎街へ至る右京白虎堀河は都人のケガレというケガレを京外へと流すための、少なくとも貴族たちにとっては紛れもない不浄の川だった。
その河川敷にどれほどの菜の花が咲いていようと。
その土手が見事な新緑に彩られようと。
決して貴族たちが白虎堀河に近づくことはなかった。
……表向きは。
「逃がすな! 追え! 殺せ!」
綿襖冑、矛を手に矢を携えた完全武装の衛士達が鬼を追う。
鬼は川沿いに咲く菜の花達を前にその足を止めた。
衛士の一人には鬼の姿が、一瞬ではあったがかの哀れな姫の姿に見えた。
一度も会ったことのない、菅原慧子なる郎女の姿に。
衛士1が矢をつがえるも、衛士2は彼を制する。
衛士2「ま、待て!」
衛士1「何故止める! まさかあれが人に戻るとでも思っているのか!」
衛士2「しかし……やはり貴族の姫とあらば」
だが、逡巡はほんのひと時だった。
鬼にとっても、そして衛士たちにとっても。
鬼は顔を歪ませると、耳障りな雄たけびをあげながら、菜の花の波に入って行った。
鬼は花をかき分け、引きちぎり、踏みつける。
その声からはもう哀れさは微塵も感じられなかった。
衛士2もまた、意を決した。
衛士2「そうだな。楽にしてやろう」
衛士たちは一斉に矢を放つ。
衛士1「いいぞ! もっとだ!」
衛士3「討て! 討て! 討て!」
鬼は川に転落し、矢の雨は菜の花たちに降り注いだ。
衛士1「どうする! 我らも川を下るか?」
衛士2「もうよい。ここから先は穢人の領域。後は奴らに任せるとしよう」
衛士1「せっかくの手柄ぞ」
衛士3「いや白虎街に関わるなど俺はごめんだ」
衛士2「うむ。穢れは全て水に流し忘れるのだ」
衛士2、鬼の流れていった川に手を合わせる。
他の衛士達も倣う。
「禍を忘れよ」
「禍を忘れよ」
「禍を忘れよ」
かくして衛士たちは忌まわしき事象を水に流した。
その矢が一本も鬼に当たらなかったことなど意にも介さず。
○暗転
○白虎堀河・下流(夜)
次に鬼が目覚めた時、辺りには人の輪が出来ていた。
ざんばら髪に薄汚れた麻の衣を纏った人の群れが。
穢人だった。
彼らは鬼を恐れることなく、むしろ笑みすら浮かべている。
勿論決して好意的なそれではなく、憐れみを帯びた笑顔だった。
鬼にはそれが我慢ならなかった。
鬼はその薄汚い人間達に向かって叫んだ。
どうせ通じないであろう鬼の言葉で罵った。
鬼なるモノ「何見てんのよ×××! あんた達の方がよっぽど×××じゃない! 見るな×××! どっか行け×××! じゃないと×××を×××して×××から×××を突っ込んで×××するわよこの×××!」
と、その首に強烈な衝撃が走った。
鬼なるモノ「ピャッ!」
鬼は気を失った。
鬼の背後にはあの天部の面の大男が立っていた。
穢人の波をかき分け、雑面の男もまたその姿を現した。
雑面の男「散れい。見世物ではないぞ」
穢人1「いやこれ以上の見世物は久しくなかったからつい」
穢人2「貴族の娘さんが呪われるなんて世も末ねえ」
穢人3「場末の俺達に言われちゃおしまいだがな」
雑面の男「追手が来るやも知れぬ。面倒な仕儀となる前に街へ戻れ」
穢人2「そん時は守ってもらうわよ。あんた達にね」
穢人たち、いやに健康的で満足げな笑い声を上げて散ってゆく。
天部面の男「あんなクソみたいな連中を守ってやってる。幾ら都で生きてくためとは言えヘドが出るぜ」
天部面、いや今は真達羅大将の面の大男が、からかうように鬼の頬を突いている。
雑面の男「やめよ狛寅(コマトラ)」
狛寅丸「そろそろ俺にも『さん』くらいつけてくれよな」
雑面の男「汝(なれ)の用は済んだ。消えろ」
狛寅丸「ああ?」
狛寅丸、太刀をちらつかせて雑面の男を威嚇する。
狛寅丸「勘違いすんじゃねえぞ。俺はいつでもお前を」
雑面の男、全く動じず懐から宮比羅大将の面を出す。
狛寅丸の動きが止まる。
狛寅丸、面を受け取ると一瞬で真達羅から宮比羅に面を付け替える。
雑面の男「では狛亥(コマイ)丸さん。その郎女を」
狛寅丸、転じて狛亥丸「かしこまりました。我が君」
雑面の男「虫女様もいい加減なものよ。女子なら女子と正確に伝えてくれねば困る。狛寅が如き乱暴者、一生眠っていて欲しいくらいだ」
狛亥丸、鬼をお姫様だっこする。
雑面の男「引きずればよい。それはもう人ではない」
狛亥丸「弱き者を救うが我らの務めと仰られていたではありませんか」
雑面の男「貴族の女ぞ。弱き者ではあるまい。本来なら追手どもに突き返しこやつら同士カタをつけさせるところだ」
狛亥丸「まあ何かの縁ではありまんか。助けてさしあげましょう。キヨメの穢麻呂様」
雑面の奥から覗く穢麻呂の目が、眠っている鬼をじろりと睨む。
穢麻呂「それは、馬鹿女の心がけ次第だ」
(つづく)