四神京詞華集/NAMIDA(26)
【昼過ぎからは………】
○蝮山・中腹(夕)
振り返る穢麻呂。
眼下に慧子の姿はない。
穢麻呂、フンと小さくため息をつく。
○(回想)尊星宮・拝殿
差し出された汁は手つかずのまま、蠅が一匹集っている。
床に頬をつけて転がっている慧子。
眼差しは虚空をゆらいでいる。
蠅はやがてその瞼に止まって顔じゅうを這う。
動かない慧子に飽きたように、蠅は飛び去った。
穢麻呂は軒に腰を下ろして本を読んでいる。
穢麻呂「おい、起きろ」
慧子「……」
穢麻呂「昼だ」
慧子「……」
穢麻呂「貴様、叩き出すぞ」
慧子「……」
穢麻呂、慧子に歩み寄り、足で小突く。
慧子は立ち上がりも眠りもしない。
慧子「頼んでない」
穢麻呂「なに?」
慧子「助けてなんて頼んでないし。呪いを解く方法を聞いただけだし」
穢麻呂「わずか半日で愚痴りはじめたか。苦悩すら一人で抱え込めぬとは」
慧子「そっちが話しかけてきたんでしょ!」
ようやく体を起こし、慧子は穢麻呂と対峙する。
穢麻呂「下手人は殺せなかったようだな」
慧子「どうせ、殺したって呪いが解けるとは限らないんでしょう。インチキ祓魔師」
穢麻呂「インチキもなにも勝手にそう呼ばれておるだけだ」
と、ふいにわざとらしく、穢麻呂は笑ってみせた。
慧子「何がおかしいのよ」
穢麻呂「インチキついでにもうひとつ戯れ言をいうてやろうか」
慧子「なによ」
穢麻呂「言い忘れていた。汝の呪いの文様『妬』は八画あるが、全て筆跡が違う。筆の力の入り具合が異なるのだ」
慧子「……?」
穢麻呂「詰まり汝を呪った者は一人ではない。八人だ。しかも恐らくは女子の筆使い。何と醜き宴の花どもよ」
慧子の脳裏に現れ出る、己を取り巻き持て囃す姫達の姿。
慧子「そんな……」
穢麻呂「地下ごときが家格をあげようなどと、女子ごときが大学者になろうなどと、生半な覚悟であたり構わず気炎を吐けばどうなるか。小娘よ。これが大貴族だ。これが四神京だ。文章博士はここが憎悪と嫉妬に満ちた禍の都と知っていたが故に身を弁えて家を、娘を守っていたのであろう。愚かなる郎女よ。無駄に世界を広げ無用な恨みつらみを買い菅原家を滅ぼしたのは、お前だ!」
青白かった慧子の顔色が、闇をたたえ赤黒く変わっていく。
慧子「うるせえ。黙れよインチキ野郎」
懐をさぐる慧子。
短刀は依然、そこに収まっている。
穢麻呂「……で、どうする? 抜いたが最後ぞ」
慧子「……!」
慧子、怒りにまかせ短刀を抜くも、切っ先が定まらない。
穢麻呂「ははは。この後に及んでもなお刃をどこに向けてよいか分からぬとはな。道は知れども一歩も進もうとせぬ理屈倒れの臆病者よ。その怒りは何に対してのものか、せめてそれくらい明らかにしたらどうだ」
慧子「私は……私はただ」
穢麻呂「フン。ただ裏目裏目の人生であったか。都いちの才女どの」
慧子「うわあああああ!」
慧子、切っ先を己が首筋にあてる。
穢麻呂「死ぬか! この虫けらめ!」
慧子の手が止まる。
慧子「……虫けら?」
穢麻呂「ああ、穢人以下の虫けらぞ。来世は豚にでも生まれ変るがよい」
慧子「豚ですって?」
穢麻呂「折角輪廻の果てに人に生まれたというに、業と怨念に塗れ己が命を絶つとは。また畜生よりやり直しだな」
慧子「うるさい」
穢麻呂「穢人として生きるくらいなら死んだ方がマシと言ったな。だが、汝ごとき愚かな小娘が死んだ方がマシと見下した人生をこの街の穢人は懸命に生きているのだ。ある者は悪事に手を染め。ある者は泥を啜り。ある者は……どこぞの貴族の玩具となって」
慧子「!」
慧子の脳裏に自分を庇って矢を受ける卑奴呼の姿が雷光のように去来した。
穢麻呂「さあ早く死ぬるがよい。必死に生きておる者の邪魔だ」
そう言いつつも、穢麻呂は決して慧子から目を逸らさない。
むしろ目を背けたのは慧子だった。
慧子は何かにすがるように天を仰いだ。
慧子「卑奴呼」
穢麻呂「……」
慧子「助けてくれた……卑奴呼が必死になって……」
穢麻呂「……」
慧子「それなのにもう死ぬんだ」
穢麻呂「……」
慧子「そんなのありえないよね。許されないよね」
慧子は短刀を放り投げると、天に向かって叫んだ。
慧子「なーーーーーんつってーーーーー!」
穢麻呂「?」
慧子「うそうそー! はーいうそでーす! 本当は死ぬのが怖いだけです! 首切るとかマジ無理でーす! そんなのできるわけありませーん! はあ? 何すかその目? そうでーす! 私、虫けらでーす! なんか文句ありますかー?」
穢麻呂「い、いやこれ以上特には」
慧子「はいじゃあ次はそっちの番ね! 見下しゃいいじゃん! 罵りゃいいじゃん! 無抵抗のか弱い女子をいたぶりゃいいじゃん! 反論ありませんね、じゃあおいらの勝ちです。つってさー! よっ! 論破王!」
穢麻呂「な、何の発作だ?」
慧子「うるせーばーかばーか! お前の母ちゃんデベソじゃないけどお前はデベソ!」
慧子、寝っ転がってバタバタとのたうち回る。
慧子「はいはい私が全部悪いんです! 卑奴呼が死んだのもお父さまが左遷されたのもええとこの姫達に恨まれたのもクッソみたいな男に引っかかって殺されかけたのも全部全部私が悪いんです! でも死にませーん! 絶対死にませーん! ごめんなさーいざまあみろー! ばーかばーかみんなみんなばーか! わーーーーーーっ!」
ひとしきり暴れまわり、やがて発作は収まる。
穢麻呂「(内心)こやつ、やっぱり殺しておいた方がよいのだろうか?」
慧子、首だけをぐるんと穢麻呂に向ける。
穢麻呂、ちょっとだけ身の危険を感じる。
慧子「ねえ」
穢麻呂「な、何だ?」
慧子「私庇って死んだ女の子、見ました?」
穢麻呂「ああ」
慧子「卑奴呼って言って、妹なんですよね。あと召使い。あと玩具」
穢麻呂「左様か」
慧子「最低っしょ私」
穢麻呂「まあ、いや、我は、何とも」
慧子「供養したげたいんです。多分今、ゴミみたいに捨てられてると思う。白虎川に流されて。穢麻呂さん川掃除してるとか言ってたじゃないっすか? だから」
穢麻呂「案ずるな。我が下僕が弔った」
慧子「え?」
穢麻呂「騒ぎに乗じ亡骸は運び出すよう命じた」
慧子、寝転がったまま感動する。
慧子「……もしかしていい人?」
穢麻呂「何の感謝も伝わって来ぬ態度だな」
慧子「すんまっせん。なんか。いろいろ」
穢麻呂「弔いは同じ穢人同士の情けだ」
慧子「じゃあ私を助けたのもお情けっすか?」
穢麻呂「いや、暇つぶしだ」
慧子「あっそ。で、どこのお寺っすか?」
穢麻呂「おぬし一気にガラが悪くなったな」
慧子「もともとこういう人間なんですー。どうせもう何もかもなくしちゃったし。取り繕う必要もないし」
穢麻呂「ならばまずは立て。歩き出せ」
慧子「……」
穢麻呂「そして、登れ」
○蝮山・中腹(夕)
穢麻呂の視界の先に、上って来る慧子の姿が映る。
鼻と口を全開に広げ、必至の形相で上る慧子の姿が。
慧子「なんだ坂……こんな坂……なんだ坂……こんな坂」
(つづく)