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4月のひとりごととリトケイ代表交代の報告

こんにちは、リトケイ鯨本です。
4月だ、新年度だ、と舞い散る桜にみとれた季節は
すぐにさり、4月も最終日となりました。

私ごとではこの春、長女が小学校にあがり、毎朝、赤いランドセルを見送る日々がはじまりました。

彼女は生後3カ月の時、奄美大島に渡ったのを皮切りに40島以上を旅してきた島通でもあります。

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ここ1年はコロナ禍でほとんど島に出掛けられてませんし、乳飲み子時代の記憶はさすがにないようなので彼女がその思い出を口にできる島は10島程度です。

が、両親の会話が島だらけなので、彼女はちょこちょこ島の話題に加わってきます。

テレビにどこかの島が映ると「ここいったことある!」といいながら弟に「このしまでさかなつったんだよー」と自慢したり。

彼女の未来は彼女の意思で拓いてくれたらいいのですが、幼少期から島を刷り込んでしまったので
彼女にとって島が人生の良きスパイスになってくれたらいいな、とシマシマの母は願っています。

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そんな娘にまた行きたい島をたずねると決まって答える島があります。

与論島、久米島、五島、深島、宝島etc……。

なぜかといえば「おねえちゃん(や、まわりの大人と)あそんだから」。

美味しい魚を味わった島もあれば、うっとりするほど美しい風景に出会った島もありました。

でも、彼女の記憶に刻まれているのは、誰かと楽しく遊んだ記憶。

誰かの笑顔と自分の笑顔が並んだ場所が、また行きたい島になっているようでした。

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2010年にリトケイを立ち上げて、2015年に娘が生まれ、私は母になりました。

この10年で私は10歳をとりましたが、取材やあれこれでご縁をいただいた島の人々も同じく歳をとり、私と同じようにパパママになった人もたくさん増えました。

そんな島のママ友、パパ友の子どもたちは、娘にとっては「しまにいったらあそべるともだち」だったりします。

これまで訪れた島で出会った子どもたちに、これから出会えるだろう子どもたち。今時点で日本の離島地域に暮らす人は約60万人で、14歳以下の子どもの数は7万人くらいいます。

私がはじめてひとりで島旅に出掛けたのはハタチの時でした。石垣島と黒島と竹富島にいって、いろんな人に出会いました。

娘がハタチになるのは2035年ですが、もしもその頃、彼女がふらりと島に出掛けるとしたら、島はどうなっているでしょう。

日本の島々に住む人の数は、2040年頃には半数近くまで減るという試算もあるので、彼女がまた行きたいと話す島も、様子が変わっているかもしれません。

人口減少は島に限った話ではありませんし、ある程度まで人口が減っても健やかに営める島もあるでしょう。

だから、人が減ることだけをただ悲観的に捉えるのは違うかなと思いますが、娘がまた行きたいという島から人の笑顔が消えてしまうのは悲しい。

島のママたち、パパたち、その子どもたち、子どもたちを見守るおじさん、おばさん、おじいちゃん、おばあちゃん。人の姿が消えても、島がなくなるわけではありませんが、島で生きる人が好きな私は島から人の姿がいなくなるのは寂しい。

子どもたちの未来は子どもたちの意思で拓いてくれたらいいと思う一方、シマシマの母としては、娘がまた行ける島や、娘と遊んでくれた子どもたちや、大好きな人たちが暮らし続けられる島が
未来にも存在し続けて欲しいと願います。

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さて、そんな願いをつぶやく4月は共にリトケイを立ち上げ、育ててきた大久保昌宏よりNPOの代表理事を引き継ぎました

引き継いだといっても立ち上げから11年目を迎えるリトケイの初期を知る人は戻った? と思うかもしれません。

確かに立ち上げから大久保くんにバトンタッチするまでは私が代表をしていたので再任ですが、個人的には「戻った」よりも「新しい」感覚です。

なぜなら、これまでのリトケイがたまごから生まれたヒヨコをニワトリまで育てる段階だったとしたら、これからは、ニワトリが元気なたまごを産み、皆に喜んでもらいまたヒヨコが生まれ、ニワトリになり、たまごが生まれるすこやか循環がぐるぐるまわるようにする段階だから。そして、それが私の新しい仕事です。

リトケイはまだまだ小さなNPOですが、おかげさまでたくさんのサポーターさんや、読者の皆さん、島の皆さんや働くメンバーなどに支えていただき、大好きな島の事柄を社会に届けながら、子どもたちの笑顔が続く島をつくる活動を行うことができています。

この場を借りてリトケイに関わってくださるみなさんにお礼を申しあげます。

そして引き続き、リトケイを通じてさまざまな島にふれ、共に島を想ってくださるとうれしいです。


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