「なにもかもどーでもよくなった」のススメ
今般、世の中では「自粛警察」なるものが横行している。自粛要請に従っていない人を見つけては、過剰に叩くアレである。自粛要請に素直に従い諸々の活動を自粛している良識ある市民のなせる業であるが、ときに正義感が暴走し、行き過ぎてしまう。ただ、この現象はコロナ以前もあったもので、「自粛警察」というキーワードとともに表面化した。自身が自粛警察になってしまわぬ為に何が必要かを、私なりに考察してみる。
1. 正義感はときに人を暴走させる
皆さまは、ルールを守っていない人やマナーのない人、モラルに欠ける人を見て、どう思うか。「不快だ」「ちゃんとルール守れよ」「品がない」等々思うことだろう。それは非常に大切なことであるから、大事にしてほしい。しかし、それを外にぶつけてしまうのは話が別である。「正義に反する奴は徹底的に叩いても文句を言われる筋合いはない」という心理が働いてしまうのである。法的、社会的な制裁が済んだとしても、過剰に叩いてしまうのである。よくあるのが、SNSの炎上である。本名、住所、勤務先等々を特定するのは、多少やりすぎである(というか、個人情報をみだりに流出させるのは名誉毀損、人権侵害)。スジの通った叩きならまだかわいげがあるが、時として的外れな指摘であったり、間違ってまったく別の人を炎上させてしまったりすると、手に負えない。
2. 自粛警察に対して思うこと
前項で述べた「的外れな指摘」は、自粛警察にも少なかれども存在する。例を挙げると、自粛要請後にテイクアウト専門で営業を継続する飲食店、観客を入れずにライブ配信だけやっているライブハウス等々。叩くのであれば、まずは一歩踏み止まって考えるべきである。テイクアウト専門は自粛要請外だし、ライブハウスの無観客化も、感染を防ぐために、かつ収益を確保するために出来ることを最大限やり、最適解を出しにいっている。これは寧ろ叩かれるより賞賛されるべきではないだろうか。人を叩く前に、まずは自分自身を省みてほしいものである。
3. なにもかもどーでもよくなってしまえ
そうは言っても、叩かずにはいられない。目についた事象が気になってしまうからである。正義感を外に振りかざすことによる弊害である。解決策としては、「外のことをあまり気にしすぎない」これに尽きる。正義感を行使して状況が改善するのは、自分自身かごく近くの人だけである。テイクアウトの飲食店で感染リスクがあっても自分が行かなければ良いだけの話だし、ライブハウスだって自分が行かなければ&周りにバンドマンがいなければ感染はしない。Twitterの炎上だって、自分の(100%正しいとも限らない)正義感は満たされるが、そもそもツイートを見なければ良いだけの話である。世の中で起こるさまざまな事象は、自分自身にとって直接的に実益or実害がないものがほとんどである。そういったものに対しても一々気にするのは、疲れるだけである。自分自身に直接の実害がないものは「どーでもいい」と思い、さっさと忘れるべきである。
4. まとめ
正義感を持つことは大切だが、それは自分自身に向ければ良いのではないか。「こういうことをしている人がいて不快だった」なら、人の振りみて我が身を直せ、自分はしなければいい。叩く前に、本当に叩くべきなのかしっかり考える。知識が不足するなら知識をつける。あまりにも常識から逸脱していて叩く場合にも、それが過剰になってはいけない。世の中というのは、実は結構どーでもいいことで溢れているものですよ。