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リタの自由論①


“自由”ってなんでしょうか?

哲学者であるフロイトは、
殆どの人間が、本当は自由なんか求めていないと説明しています。

しかし僕は“自由”を理解するれば、これからどう生きていくべきなのか、そのヒントが見えてくると思うんです。

今回は“リタの自由論パート①です。
是非最後までお楽しみ下さい



①鳥と飼い主「自由と責任の関係性について」

•”自由”とは


鳥籠の中に一羽の鳥がいました。
ある日、飼い主が餌を与えにきたのですが、
飼い主が扉を閉め忘れ、その鳥は鳥籠を出て、外に羽ばたき自由になりました。

言い方を変えれば、鳥は住処を失い、餌を与えてくれる
主人を失う訳です。

しかし、それが”自由”なのです。

自らを由とする事、即ち、自らに降りかかる責任を自らで対処しなければならない。
自らをよりどころにするという事。 
それが”自由”

皆んなの考える自由とは、好きな時に鳥籠を出れて、好きな時に帰って来れてご飯が食べられるという事だろう。

しかし、勝手に鳥籠を出る、あるいはいつ帰ってくるかわからない鳥に対して、住処とご飯を用意する責任は飼い主にあるのだろうか? 

逆に、飼い主は
鳥籠の中に住んでくれている鳥に対して、住処とご飯を与える責任を果たせないのなら、鳥は死んでしまうか逃げていくでしょう。 

“自由と責任は常にセット”であり、
鳥と飼い主に上下はなく、ただ互いに自由を尊重し責任を全うしているだけなのである。   


・「解説」


自由とは、「自らを由とする」状態を表す。
由とは、よりどころ。いわれ。わけ。もとづく。
つまり、自らを”由来”とする状態を自由と表します。
自らを由来とすることは、原因と結果に対して自らが責任を持つということになります。

鳥は、住処を失い、餌を失い、自由になった
鳥は主体的に動き、新たに住処を作り、餌を探さないといけない、
自分で選んだ道に責任をもった事になります。

自由とは”意思”ではなく”状態”を表す。

つまり、鳥が旅立った後、また自ら鳥籠に戻って「飼われている鳥」になったとしても、それは自由な状態と変わらないのだ。

どう言う意味?と思うかもしれませんが、

選択が自由を作るのではなく、責任が自由を作るのです

りた

自分が選んだ選択で、その道で起きる全ての責任を自責として受け取り、歩んでいく。

その状態こそが
本当の意味で自由に生きている状態だと言えるのです。

ときに、人は選択肢の中にいる事を自由と錯覚するんですが、残念ながらそもそも始まってすらいないのです。 

選択肢の中に居ることを自由と錯覚してしまうのは、ただ単純に現実が受け入れられておらず、無意識に責任から逃げているだけなのです。

耳が痛いかもしれませんが、これが僕が見つけた自由に対しての答えです。

また福沢諭吉は自由をこう説いています。 
「自らを持って由となす」みずからをもって”よし”となす

自らを主体とする重要性を説明しているのです。

物事には必ず二面性があり、
自由の中に不自由は必ず同時に存在しています。

需要なポイントは、自由と不自由を含んだ選択を
【自分で選んでいるのか】という点です。

自由の対義語は "他由" だと僕は思っています。

自らを由来とするか、
他人を由来とするか、

どちらが「自由であるか」は責任が在るか無いかで分かります。

他人を由来とする行動って責任が取れないんです。
物事で失敗した時に、〇〇の言う通りにしたから失敗した!とか、〇〇があれをしなければ!とか、そこに責任が発生しないので、気持ちは楽かもしれませんが…

自身の人生にとっては、1mmも価値が無いことです。

他人を由来とする行動をして、自分の人生の何になるって言うんですか?

他責は気持ちが楽かもしれませんが、
その楽した分だけ”自分の人生を生きてない”という事になるんです。

自分の行う行動に責任を持てないという事は、
つまり自分のやっている事に、「誇り」も「覚悟」もない証拠なのです。

僕たち一人一人の人生は、
他人に委ねられるほど安い代物じゃありません。

皆さんが、本当の意味で自由になれる事を祈っています。

“自由とは自らの選んだ制約の中にのみ存在している”

りた

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