最近のぐじゃぐじゃ
最近の僕はおとなしい。あんまり自覚がなかったけど複数の人から最近そう言われることがあって、自分もそなことない!と言い返す感じでもなかった。依然として奇声を発したりいきなり支離滅裂に喋る日常に変化はないので知ってる人からしたらどこが?と思うかもしれないけど
大学院に進学してからは研究室が持つプロジェクトの作業が主で、国からお金が出ているものだからちょっと怖がったり純粋に対象地を面白がったりしながらやっている。
学群の時は授業で自分に課題が課せられて、最初から最後まで自分の考えを説明したりモノや考え人を納得させたりするようなことが休みなしにあった。その時は自分が発表する時あまり恐怖みたいな気持ちはなかったし、僕だけがここをこう見てるんだ!というちょっと勘違いにも近い、周りを見ていないが故の根拠のない自信とかが確かにあった。それを納得させるだけの知識は明らかに足りなかったなと思うけどきちんと自分の言葉でしっかり喋っていたのは憶えている。
そうなると当然言ってることが理解されにくかったり、伝わりきらなかったり、たくさん喋りたいことが多すぎて毎回プレゼンがぐじゃぐじゃになったりしていたが、別に授業だしと思って気に留めてなかったし、思いっきり一回凹んだ後はご飯を食べて眠って、吹っ切れてスカッとしていることがほとんどだった。
最近はどうか、自分の考えを主張することが明らかに以前より怖くなっている。責任とかいう言葉を無責任に使って、苦しんで考えることでやっと果たせる責任自体から逃れようともしていた時もあった。本当に小賢しい。
院で扱おうとしている対象地とテーマは卒業論文/制作の時よりよっぽど筋が通っていて、いわゆる一般的な「問題」として取り上げられることもたくさんあるはずなのに文字を書いても発表しても嘘ばっかりが並んでいる。魂を売ってスッキリ削ぎ落としたあげくわからないと言われてしまったりして、その度にこんなことがしたいわけじゃないのにと思って泣いて暴れたくなる
おそらく卒業論文/制作の時は以前のエネルギーがあったし、走り切るしか卒業のみちはなかったのでどれだけしんどくても周りの人の力を総動員しつつ自分も歯を食いしばって何かしら生み出せたが、終わった後に振り返ってみるとあの経験がトラウマになりかけていることに気づいた。
わかりやすい需要がない(誰からも強く求められていない)テーマで、ゼロからどこに着地するかわからない状態で大口を叩き続け自分の脳みそしか信じるものがなく、その脳みそが停滞したりぶっ壊れたりしたら多くの人に散らかった文章と何かわからないモノを見られて卒業もできない。加えて力を貸してくれた人もまとめてガッカリさせることになる。もう終わったことだが冷静に振り返ってみれば、できればもうあれはやりたくないと強く思うには十分な条件が揃っている。
だから筋が通っていて正しくてみんなから求められていて、比較的安心して研究ができるようなテーマならあんなことにはならないだろうという気持ちがどうしても出てきて自分の言葉で喋れなくなっているのだと思う
しかし研究室の先生には、そうやってもがき苦しんで手に入れた卒制の成果に僕のオリジナリティがあるから簡単に捨てるな、と言われる。(苦しんだことに意味があるというよりは単にその分野においてオリジナリティがあるという意味で)
そんな流れで自分に元々めちゃくちゃあるビビり気質と考えすぎが再び顔を出していて、加えてそれを振り切ってでもやりたいことや考えていることがまだ対象地に対してないのが原因だと思っている。
現場に行けない中で考える力はこれから仕事をする上で身につけなくてはとは思うが、自分が自分の言葉で喋るには多分その場所に行ってなにか感じ取ることは必要不可欠なのだと思う。考えたいテーマの性格的にもおそらくそうだ。
先生も僕は現地に行きさえすれば大丈夫だ、と言ってくれているが、こんな状態の人間が以前のようにゼロの状態で対象地に行き、正しくアンテナをはれるのか疑わしい。行っても何も感じられなかったら、とか期待されているほどの成果が出せなかったらとか、今度はそこに全て賭けている状態が自分にプレッシャーを与えていて、行くのは楽しみだけど同じぐらい怖い。無意識を意識するみたいな状態の今はもはやどうしようもない。
行ってみないことには何もかもわからないのでとにかく準備期間の今は対象地の基礎知識、地理情報のインプットと、前回きちんとできなかった既往研究集めをするしかない。できるだけ関係ないところで手間取らないようにするためだ。
あと修了制作は形、設計で伝えることから逃げない、を目標にがんばます。
最近のことについてでしたおわり
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