キネマロマンホール第三話
「誰なんですか、あなたは!」
安曇の問いかけに、その白髪混じりの初老の女は、わずかに視線をそらした。そして、そのまま背中を向けると、客席が並ぶホールに向かってゆっくりと歩き出した。真矢の足元に居た赤毛の子犬が、キュンキュンと鳴き声を上げながら、女を追い駆けるように階段を降りて行った。
「安曇さん、あの人、もしかして……」
真矢が恐る恐る訊いた。
「うん、間違いない。沢田さんの言っていた、あの女だ」
安曇はそう言うと階段を駆け降り始めた。真矢は、安曇があの女から何かを聞きだすつもりでいる事を直感した。と同時に、思わず身震いがした。あの女は、つまり殺人犯なのだ。むやみに近付いて大丈夫なのだろうか。真矢は急に安曇の事が心配になり、彼の後を追って階段を降りた。その矢先、真矢は何かを踏み付けたような気がして、ふと足を止めた。見ると、確かに何かが落ちている。拾い上げて懐中電灯の光を当ててみると、それは、女物の小さな手帳だった。あの女が落とした物なのだろうか。真矢は迷わず中を見た。すると、カレンダーのページに何箇所か印が付けてあるのが目に留まった。ある日には、『沢田、午後十一時、現れる』、そして、別のある日には、『沢田、午前二時、映写室』などと記されてある。あの女は、沢田を追っているのだろうか。だとしたら、何故、追っているのだろう。真矢は、何か他にも手がかりになる事が書かれていないかと手帳をめくっていたが、最後のページに人の名前が書いてあるのを見つけた。
「奈川幸子……。これがあの女の名前なのね」
真矢は手帳をたたむと、急いで安曇の後を追った。
客席ホールに入ると、スクリーンを背中にした安曇が、最前列に座っている初老の女に何か問いかけているのが見えた。真矢は、安曇の方へ近付いて行きながら手帳を握りしめている掌が汗ばんでくるのを感じた。真矢に気が付いた安曇は、首をゆっくりと左右に振って見せた。どうやらその女は一向に口をきこうとしないらしい。ただぼんやりと、スクリーンを見つめているだけのようだった。真矢は、安曇に手帳を手渡してから、こう言った。
「さっき見つけたの。きっと、この人が落としていったものよ。ねえ、そうでしょう?奈川幸子さん!」
真矢に名前を呼ばれ、女はやっと、安曇達の方に顔を向けた。安曇は、その視線を捉えながら訴えるように言った。
「沢田さんを殺したのは、あなたなのですね?一体、あなたは何者なのです? どうして殺人なんか犯したんですか? あなたと沢田さんは、どういう関係にあるんですか?沢田さんは、どうして既に時効になった事件の調査を我々に依頼してきたんでしょう?」
安曇がそこまで訊いた時、真矢が割って入った。
「奈川さん、あなたは沢田さんの行動をずっと追っていましたね?それは何故なんですか?」
この問いに、安曇は驚いて真矢の顔を見た。真矢は構わずに続けた。
「さっきの手帳の中には、沢田さんの行動が記録されてますね。いまだに信じられない事だけれど、沢田さんは過去からやって来た人ですよね。しかも、四十年前にあなたが殺した人。その彼に、あなたは何の用があるというのですか?」
安曇と真矢の問いかけにじっと耳を傾けていた女は、やがて小さな声で話し始めた。
「キネマロマンホールは、歴史の中で生き抜いてきました。日本が戦争のさなかにあった時も、その戦火の中を持ちこたえてきました。父から聞いた話では、この辺りにも沢山の焼夷弾が落とされたんだそうです。映画館は無事でしたが、母は亡くなりました。
父は、このキネマロマンホールの映写技師として働きながら、男手一つで私を育ててくれたのです。ここの映写室にも、よく連れてきてもらいました。
言うなれば、私の遊び場でした。そこで過ごしているうちに見よう見まねで仕事を覚え、子供ながらにも、父の助手まで務めるようになっていました。
昭和二十年代の終わり頃の事です。私は十六歳くらいになっていました。その頃、沢田は父の弟子だったのです。彼は父をこの上なく尊敬し、ほんの子供だった私にも、とてもやさしくしてくれました。ところが、ある日、彼は、父が命をかけて守ってきたある物を盗み出し、勝手に売ってしまったのです。その事で父は憤慨し、ある夜、映写室で沢田を激しく問い詰めました。やがてもみ合いになった時、彼は父を突き飛ばしたのです。もともと心臓を患っていた父は、その衝撃で発作を起こしてしまいました。
館内の掃除をしていた私を、沢田は血相を変えて呼びに来ました。急いで映写室に向かうと、父の意識は既に無くなりかけていましたが、それでも、私が駆け寄ると声を振り絞って言いました。沢田を信じるなと。父は息を引き取りました。その前から、沢田は救急車を呼んでいたようですが、いくら待っても来ず、何度目かの電話でやっと到着しました。
まるで、父が息を引き取ったのを見届けてから、電話をしたかのようでした」
女は唇を噛んでうつむいた。その時、真矢が何かに気付いて、かすかに後ずさりをした。安曇が怪訝そうに真矢を見た。真矢の視線は女の右手に釘付けになっている。見ると、女は包丁を握っていた。安曇の頭の中を、一瞬、凍りつくような衝撃が走った。懐中電灯の薄明かりの中で鈍い光を放っているその刃先からは、しかし、既に、凶悪な衝動は感じられなかった。
彼は、真矢を自分の体の後ろに隠しながら、女に語りかけた。
「沢田は何かのきっかけで、未来に迷い込んでしまい、自分が殺されてしまう事を知った。しかも、誰に殺されるかという事も。その時は、ひどく混乱した事でしょう。そして、何とかそれを阻止できないものかと考えたのかも知れない。でも、歴史を変える事はできません。過去は変えられないのです。彼はあなたによって殺されているのです。奈川さん、今、その手にある刃物を、再び沢田に向けるつもりですか?理由はどうあれ、そんな愚かな事はおやめなさい」
女は、顔を上げ、安曇に言った。
「ある夜、私は、このキネマロマンホールの前を通りかかりました。その日は、奇しくも、父の命日でした。そこで、私は我が目を疑いました。沢田がいる!それも、あの頃のままの姿で。そして、もっと驚いたことに、私は、……私は、私自身の姿を見たんです。包丁を手にした、あの日の私の姿を。キネマロマンホールは、朽ちてなどいなかった。でも、次の瞬間、目の前にあったのは、この朽ち果てた建物。しかし、おかしな事に、あの沢田は、まだそこに居た。
それで、私は思い出したのです。決して一人で映写室に行ってはいけない、と父が私に言っていた事を。この映画館には、不思議な時空が存在するんです。でも、そんな事、どうでもいいんです。あの男を……沢田を、再び殺さなければならない。私は、大切な父を殺した彼を許すわけにはいかないのです。安曇さん、でしたね。もうこの件には関わらないで下さい」
彼女は静かに席を立って、安曇と真矢を見ることもなく、客席ホールから出て行った。その後を赤毛の子犬と、そして、どこにいたのか、やや大きめの赤毛の犬が彼女の後を追って出て行った。その後ろ姿を見ながら、安曇は、ふと、ある事に気付いた。
「沢田が我々に調査を依頼した本当の目的は、奈川幸子の居場所を知る事ではなかったのか?そして、彼自らの手で、奈川幸子に復讐するつもりではないのか?いや、そんな単純な事ではなさそうだ。そこには何か別の理由がきっとある。その謎さえ解ければ……」
考え込む安曇の顔を、真矢が不安そうに覗き込んでいた。
翌日、安曇調査事務所に一本の電話が入った。安曇が出ると、驚いた事に、あの女、奈川幸子からであった。番号を調べてかけてきたのだろうか。しかし、そんな事を訝る前に、安曇は大きな声を上げた。
「何ですって!」
その声に、お茶を運んできていた真矢が、もう少しで、湯飲みを床に落としそうになった。
「どうしたんですか?」
と彼女が訊くひまもなく、安曇は電話を切ると、後で連絡する、とだけ言い残して、あわてて外に飛び出して行った。
第三話 おわり
次回、最終回