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『雇われ社長のもやもや日記』11.麻酔から覚醒、脳がリスタート


2月10日(木)手術終了の経過


「手術終わりましたよ、起きてください」といった大きな声で、目覚めた。手術時間は予定の6時間を大幅に超えて8時間に及んだ。

虚血発作を防ぐために血液をサラサラにする薬(バイアスピリン)を前日まで服用していたため、出血が止まらず、なかなか頭蓋骨を元の状態に戻すことが出来なかったそうだ。

とはいえ、とりあえず無事に手術は終わったと告げられた。

この先2月24日まで日記の記録がない。記憶については手術前以上にあるものの、毎日の出来事を記録することが出来なくなったからだ。

手術後、すぐに家族との面談が許された。コロナ禍で家族との面談が一切禁止されている時期だったので、特別許なことだった。

おそらく30分ほど話した。手術後は異常なほど冗舌で、脳の血流が突如良くなったせいか、話したいことが次から次へと浮かんできて、留まることがなかった。いわゆる躁(そう)の状態だったのではないかと思う。

※手術の順番について思うこと

カーテンで仕切られた隣の手術後の患者は手術を受けるために来日していた外国人だった。医療滞在査証(ビザ)の期限が迫っているので、その対応策を打ち合わせていた。

この外国人患者がいつ来日したのかは分からないけど、ビザの都合で優先的に手術が実施されていたことは間違いない。そのために日本人の患者が後回しになっているのも事実。

日本が食料を買い負けしている現状は飲食業界にいて実感していた。規格が厳格過ぎたり、要望が細か過ぎたり、経済力があった頃は、それでも海外の企業は対応してくれていた。

しかし今では、中国やその他の後進国の経済発展により、日本を売り先に選択するメリットは無くなり、日本離れが進行し、買い負けが常態化している。米国産牛肉やブラジル産鶏肉は象徴的だ。

それが医療の現場でも同様のことが起こっているとは思いもよらなかった。

平時の暮らしでは、危機的な現実に気づかない。異常気象によるコメ不足や野菜の高騰に直面して初めて、日本の購買力の低下に気づいたり、入院して手術(生命)の優先順位が変わったりしていることに遅ればせながら自覚させられる。

2月11日(金)手術後の激痛

術後はそんなに甘いものではなかった。手術室からNCU(脳の集中治療室)に戻り、少し眠ったあと、深夜に目覚めてからは、想像を絶する痛みが襲いかっかってきた。

術後の激痛については、手術前に看護師から聞いていた。なので、来るべきものが来たという感じだった。痛み止めを最大限に活用すると聞いていたので、早速ナースコールを握り、看護師に痛み止めの投与を求めた。

看護師も医師の処方のもと投与可能な上限量で対応してくれたものの、全く効かない。

結局、手術後24時間ぐらいはどれだけ痛み止めを増やしても、痛みMAX状態は同じだから、胃などに悪影響があることを考慮すれば痛み止めは逆に必要ないと思えた。

実際、途中から痛み止めの投与を求めることはやめた。この痛みについては、個人差が非常に大きいらしく、痛み止めを投与すれば激しい痛みはなくなる患者もいるそうだ。

痛み以外の経過は順調で、体調だけでなく、発話や記憶機能も良好だった。3日も経てば痛みも和らぎ、一般病棟に移れるめどが立とうとしていた。

2月12日(土)出血多量で言語機能を喪失

術後2日目の朝は痛みが和らいできて気分も良くなった。ひとつ体調面の不調は便秘になったことだ。この時点ではもうトイレに歩いて行くこともできたが、頭を切って血管をバイパスしているので、さすがにいきむことができなかった。

過去に便秘を経験したことがなかったので、出そうで出ないという状態が辛く、便秘の気持ち悪さをはじめて実感した。

そういった状態から突然、変調をきたしたのが術後2日目の15時だった。言葉を発するのが困難になった。伝えたいことがあっても、それを言語化出来ない。

土曜日にも関わらず緊急手術が決定

手術前に「術後1週間程度は血流のバランスが変化することにより言語機能障碍が出て話しづらくなったり、リハビリが必要になったりするケースもある」と看護師から聞いていた。

なのでその言語障碍が始まったのだと思った。多くは1週間程度で元通りに話せるようになるが、回復しないケースも稀にあるということだった。

しかし原因は違った。言語障碍が出始めて、しばらくすると緊急でCTをとって診断された。その結果、脳内に大量の血液が溜まっていて、それが脳を圧迫して話づらくなっているとのことだった。

このまま放置すると危険なので、緊急手術を行うと告げられた。家族の同意確認も電話で済ませて、承諾書は後回しにするという慌ただしさだった。

家族からすると順調に経過していると朝の段階で聞いていたものが、一転、危険な状態だと伝えられ動揺したようだ。

言語機能以外は何の変化もなかったので、あっけにとられていた。言葉が出づらくなってからわずか4時間後の19時には手術台の上にいた。

『雇われ社長のもやもや日記』1

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