酷く劣悪な「監獄」からそれよりも程度の良い「監獄」にしても合格ラインに届かない(ムゲンの心配)
ムゲン一族の統合体は、時のない部屋から不自由な世界の「改革」なるものを観察していた。
「果たして、この意識世界に、ちゃんとあらゆる体験者が心から満足できる理想世界が実現するのだろうか……」と……
ムゲン統合体にとって気がかりなことは、超時空聖体たちが「強制的に」不自由な世界を程度の良い世界にしようと意志していることだった。
確かに、不自由な世界群は、強制的に改革しなければ改革できない状態ではあった。
しかし、それはあくまで不自由な世界で他の体験者を強制的に支配しているその支配行為を止めさせるための強制が認められるだけであり、他の体験者に酷い体験を強制していない体験者まで強制的に支配していいという正当性はあるはずもなかった。
それをそれで良いと認めてしまえば、ただ劣悪な監獄からそれよりも多少程度の良い監獄になるだけであり、本当の自由が提供された楽園や遊園地にはならなくなる。
それでは、結局、闇側の支配者の監獄に入るか、光側の支配者の監獄に入るかのどちらかを選ぶしかない。
どちらも自分以外の支配者に何でも従わなければならない状態にしかならない。
ムゲン統合体は、それは本当の自由ではないと思った。
目指す方向が間違っていると感じた。
体験者たちを強制的に苦しめることと強制的に満足させることは、どちらもタイプの違う体験の強制行為であり、体験の自治権を提供することにはならないからだ。
それは不自由な世界に蔓延していた「飴体験と鞭体験の強制による体験者たちへの不当な調教行為」でしかないとムゲン一族の統合体は感じた。
「飴体験と鞭体験の強制による魂たちへの不当な調教行為」はずっと前からやってはダメな行為だと通告していたはずなのに、どうやら超時空聖体たちは、自分たちが生きるか死ぬか、滅ぶか存続するかの事態となっては、とにかくなんでもかんでも強制的にやってしまってもいい、そうするしかない……などと思ってしまっているような気配が感じられたからだ。
確かに、残酷拷問体験という鞭体験の強制と幸せ体験や満足体験の強制のどちらがいいかと言われれば、幸せ体験や満足体験の強制の方が「まし」ではある。
しかし、それは自分の意志で自分自身の体験を自由に選べる状態=体験の自治権の提供ではない。
あらゆる体験者たちのための最善最高の理想世界を実現するとは、鞭で脅して支配者に何でも従う奴隷にするか、飴を与えて満足させて支配者に何でも従う奴隷にするか……どっちがいい?という問題ではないのだ。
ムゲンはそうした問題が気になった。
超時空体の中には、
「より高次元の世界や存在から見れば、不自由な世界での苦楽や生き死になど、大したことではないのだ」
などと言って体験者たちを洗脳している者たちまでいた。
しかし、ムゲンは、その「意識世界」以外のありとあらゆる意識世界にも自分の分身体を派遣していたので、そうした超時空体たちの世界よりもさらに進化した意識世界から見ることができた。
そして、そんな価値観を意識世界中に流布したのでは自業自得の法則によって酷い未来が発生することが予測できた。
なぜなら、その不自由な世界群を内包している意識世界は、より進化した意識世界から見れば、低次元の不自由不完全な意識世界でしかなく、そうした不自由な意識世界での苦楽や生き死になど大したことではないのだ……と判断されることが明白だったからだ。
であれば、超時空体や超時空聖体たちも、より進化した意識世界によってたいしたことではないのだと言われて、苦楽や生き死にが強制されてしまうことになる。
超時空聖体たちは、その危険性を理解してはいたが、非常に危うい状態だとムゲンは感じた。
各々の体験者が自分自身の体験だけを最大限自由に選択できる状態を提供すべきなのに、体験者本人の願いや意志を無視して良さそうな体験だけを強制的に与える……というのではぜんぜん意味が違ってくるからだ。
「本当の自由」を与えることまでは、体験者たちにとって必要なことかもしれなかったが、その後は体験者たちが自分の望む体験を自由に選べるようにしてやらなければならない。
あくまで不当に他の体験者を確信犯で酷く苦しめている者たちに対して、そうした酷いことをしたいという欲望や本能や気分や感情や価値観…を消してやっていったんは強制的に本当の自由を提供することは必要なことになるかもしれないが、何も悪いことをしていない者や完全に心からの納得合意ができている関係性にまで強制介入すべきではないとムゲンは思う。
ムゲンは、超時空聖体たちが、意識世界の存亡の危機にあせってしまってその持っている力の使用の匙加減を間違ってしまうんじゃないかと心配していた。
とにかく倫理的に問題がある魂も問題がない魂も、まとめて全員悪いことが絶対できないように強制的に洗脳してしまえばいい……などと考えやしないかと心配していた。
そうなるともう体験者全員を超時空聖体たちの操り人形にしてしまえばそれでいい……というのと同じことになってしまうからだ。
悪いことをする操り人形を良いことをする操り人形にしてしまえばそれで問題が解決するのかといえば、全然解決したことにならない。
そんなことをすれば、自業自得の法則により、超時空体たちも全員より進化した世界の存在たちにとっての良い操り人形にならねばならなくなる。
そうなると、結局、体験者同士が互いに他者を操り人形にする競争や争いが自動発生し、ついには操り人形だらけの世界になってしまう。
ムゲンは、そんな世界には生まれたくないな……と思う。
それは魂や自由意志を殺すための世界にしかならないからだ。
そうした世界に生まれてしまうと、皆その自由意志や自我を強制的に消され、つまりは魂として殺されて悪い操り人形や良い操り人形に「されて」しまう。
そんなんじゃ全然ダメだろう……とムゲンは思う。
それがわかっていてそんな世界に生まれたいと願う魂がいるのだろうか……と思う。
それは「魂の墓場」だと感じる。
魂を強制的に悪いことをする操り人形にしてしまう現状の不自由な世界群が「魂と良心の墓場」であるなら、魂を強制的に良いことをする操り人形にしてしまう世界は、「魂の墓場」だと思う。
どちらの墓場がいいかと問われれば、まだ良いことをする操り人形にされる「魂の墓場」の方がましかもしれない。
しかし、どちらも魂の墓場世界なのだ……
魂の墓場などではないちゃんとした良い選択肢を提供しなければならない。
じゃないと超時空体たちもみんな墓場行きになってしまう……
そんな事態になることは容認できないし、、放置できない……
そもそも、なぜムゲン一族の統合体がそんな心配をしはじめたかといえば、超時空聖体たちが対話を拒む姿勢を示したからだった。
船頭がたくさんいたら船を目指す方向に進められなくなる……だから私たちに従ってもらうしかない……などと思っているのだろうが、ちゃんと「本当の自由」や「体験の自治権」や「最大限の体験選択の自由」を提供するようにと良き未来に進むための実現目標を伝えているのに、あらゆる体験者たちを強制的に良き操り人形にしてしまえばいいと判断されたのでは、ちょっと待て!方向が間違っているぞ!と言わなければならない。
そうした問題点の指摘すらも無視して対話すら拒むとなると、意識世界生き残りの改革に失敗するのは確実になってしまう。
そのやり方は方向が間違ってるからそのままだと不合格になるよと指摘しているのに、「いいえ、私たちのやり方でやりますから、ムゲンさんは黙っていてください!」など主張されても困るのだ。
「上手くやってくれ」とは伝えたが、目指すべき目標以外の方向に進むのはNGなのだ。
目指すべき目標とは、
「本当の自由」「体験の自治権」「最大限の素晴らしい体験の選択肢の提供」
そして、「あらゆる体験者がそれぞれ自立しスタンドアロンで必要十分に満足できる状態」
一部誤解している者もいるので、最後のスタンドアロンでの満足状態がなぜ必要なのかも説明しておかねばならないとムゲンは感じた。
愛し合い好き合う者たちが、分かれてスタンアロン状態になれというのではない。
望まない酷い体験を完全に回避できるようになるために、スタンドアロンで必要十分に満足できる状態を確保しておく必要があるのだ。
なぜなら、愛し合っていても死別や心変わりやその他の諸行無常の状況変化などによって必ず愛する者と別れねばならなくなる苦しみが発生するからだ。
また、スタンドアロン状態で必要十分に満足できないと他者に依存するようになり、他者があーしてくれないこーしてくれない、自分の望むことをしてくれない……と思うようようになり、その結果、不満や不和や苦しみが必ず発生してくるからだ。
また、スタンドアロンで必要十分に満足できない者たちは、他者と関わらないということができないために、倫理的に不完全な価値観のまま不用意に無理やり他者と関わり、利己的な心をぶつけ合い……互いに憎しみあうような結果が発生してしまうからだ。
不自由な世界群には、そんな「結果」が無数に確認されていた。
だから、愛し合うのは問題ないが、その前提としてまずはスタンドアロンで必要十分に満足できるようになってから、その基礎の上で依存しあわない形で完全に双方自由な状態で愛し合えばいい。
いつ別れることになっても、互いに全く苦しむことがないくらいに自由になってから、さらなる楽しみのために愛し合えばいい。
愛する相手がいなくなったらたちどころに絶望と苦しみに苛まれるような不自由な状態で愛し合うのではなく、そうしたリスクから完全に自由になった状態でさらなる楽しみのために互いに自由に愛し合うといい。
その安全確保のためのスタンドアロン満足状態の獲得なのだ。
誰もがスタンドアロン状態で必要十分に満足できるようになっていれば、互いに他者に何かを求めて文句を言い合うこともなくなる。
ほとんどの「倫理的な意味での犯罪」は、誰もがスタンドアロン状態で必要十分に満足できない状態だから発生してきた。
支配者たちは、スタンドアロンで必要十分に満足できないために、他者を力づくで支配することで満足しようとしてしまう。
そして被支配者たちもスタンドアロン状態で必要十分に満足できないために、支配者を恨み呪うようになってしまう。
スタンドアロン状態で必要十分に満足できる者たちは、「倫理的な意味での犯罪」をほとんどすることがなくなる。
諸行無常の法則がある以上、他者の心も変化し、周囲の環境も変化する。相互依存していなければ安全が確保できない状態では、一度依存相手がいなくなれば、その心が変化するだけでも、誰かが困り苦しむことになる。
つまり、誰もがスタンドアロンで必要十分に満足できない状態では、諸行無常の摂理によって、必ずそこに苦しみや不満が発生する。
そして自分を満足させてくれる自分に何でも従うイエスマンを無理やりにでも大量生産しなければならない……などとまで思うようになってしまう。
そのためにならダメと言われても「飴体験と鞭体験による魂の強制調教」のような倫理的に明らかに問題となるようなことを実行しようと考えるようになってしまう。
ムゲンはそのような道理を超時空聖体たちに説明した。
なぜなら超時空聖体たちの多くが、「愛しあうこと」こそが一番大事なことなのだという価値観を持ってしまっていたからだ。
ムゲンは別の価値観を持っていた。
愛し合うという関係性はあくまでより楽しむための自由な選択肢でなければならず、その前提にどうしてもスタンドアロンで必要十分に満足できる状態が確保されているべきなのだ。
でなければ、必ず遅かれ早かれ超高確率で、
愛別離苦という苦しみを味わうことになるからだ。
それがわかっていて、皆でただ愛しあえばすべての問題が解決するのだ……という価値観では不十分不完全だとムゲンは思っていた。
それでは愛をつかさどる存在に何でも従えば、上手くいくから従いなさい……という価値観でしかない。
それは本当の自由ではない。
愛しあうことを選ぶことはあくまで自由な選択肢となるべきであり、義務であるべきではない。
義務であるべきは、
「本当の自由」「体験の自治権」「最大限の素晴らしい体験の選択肢の提供」
そして、「あらゆる体験者がそれぞれ自立しスタンドアロンで必要十分に満足できる状態」をあらゆる体験者に提供すること
でなければならない。
みんなが愛をつかさどる存在に従えばうまくいくという価値観は、誰にも従わず自由に自治したい……と願う魂たち相手にはうまくいかないのだ。
愛に従えば満足でき、愛に従わねば不満足になる……というのでは、悪党に従えば満足でき、悪党に従わねば不満足になる……という価値観とほとんど変わらなくなってしまう。
ただタイプが違うだけだ。どちらもとにかく自分たちに従えばいいのだ……という価値観でしかない。
他者を従えたり、他者に従ったり……しなくても何の問題もない状態をまずは皆に提供せよとムゲンは思っていた。
そのためには少なくとも平和的に自治する権利くらいは提供しなければならないはずなのに、不自由な世界には平和的に自治する権利すら保障提供されていないままだったし、そうした自治権を提供すべきだという目標を超時空聖体たちはまだ掲げていなかった。
税金は強制的に徴収され、その税金によって各種の大量破壊兵器や各種の毒が研究開発されて使われてしまっていた。
少なくとも倫理的に問題であるそうしたことへの税金を払わない自由や権利はどうあっても提供されねばならなかった。
そもそも税金のような不特定多数から強制的に徴収する性質のお金は、
「本当の自由」「体験の自治権」「最大限の素晴らしい体験の選択肢の提供」
そして、「あらゆる体験者がそれぞれ自立しスタンドアロンで必要十分に満足できる状態」
をあらゆる体験者に提供するためにのみ倫理的な良き配慮を持って賢明に合理的に正しく使われるべき性質のものなのだ。
政治システムも経済システムも科学技術も法律も教育も……すべてそうした目的を実現するために全面的に見直され最適化される必要がある。
圧倒的多数の体験者たちが望んでいない悲惨な戦争を、支配者たちの支配権力を維持し高めるため…などという倫理的に完全に間違った目的で、わざと計画的に引き起こしてはならないのだ。
経済システムも「あらゆる体験者がスタンドアロンで必要十分に健康的に自給自足自立できるようにする」ことを目標に最適化しなければならないのだ。
そのための最高のアイテム群、商品群…をあらゆる会社、国家、自治体、個人……が協力しあって研究開発し、そうした自給自足自立アイテムを大量生産してあらゆる体験者に提供するべきなのだ。
倒産すれば生活に困る者たちが多数発生するような状態でいつまでもライバル企業との過酷な生き残り競争をし続けなければならない経済システムではダメなのだ。
世界規模で経済戦争などしている場合ではなく、全世界で「あらゆる体験者がスタンドアロンで必要十分に健康的に自給自足自立できるようにするための製品やアイテム」を協力しあって研究開発し、最高最善のアイテム群を全世界の体験者に提供してゆくという世界全体の共通目標を掲げなければならない。
その目標の実現に支障が発生するような場合は特許権や独占権などは認めるべきではない。
あらゆる体験者たちのための最高最善のアイテムや技術を、せっせと研究するのはいいが、それを独占して自分たちだけに都合が良い状態にしよう……などという価値観を認めてしまっては未来は良くならないからだ。
そんな利己的な価値観を持っている者たちがいくら良い技術を発見したり、良い製品を開発できたとしても、目指すべき目標うに沿ってそれらをあらゆる体験者たちのために提供する気がまったくないなら、そんな特権類は目指すべき目標実現の障害となってしまうからだ。
あらゆる体験者たちに本当の自由や体験の自治権や最大限の素晴らしい体験やスタンドアロンで必要十分に満足できる状態などを提供するために必要不可欠な技術や製品は、それを提供する意志を確信犯で故意に持たない者たちによって独占されてはならないのだ。
そんな価値観しか持てない者たちが次々と新しい科学技術をせっせと研究開発し続ければ、そうした科学技術の利己的な悪用の連鎖によって世界が滅ぶことになるからだ。
そんなことになるくらいならアイデアや技術に対する独占権など一切与えない方がはるかに良い。
あらゆる体験者たちに本当の自由や体験の自治権や最大限の素晴らしい体験の選択肢やスタンドアロンで必要十分に満足できる状態を提供しようと真摯に自発的に意志できる者たちだけで新技術の研究開発をするべきだ。
意識世界改革をするというのなら、不自由な世界群においては、そのくらいはしてもらわなければならない……とムゲンは思う。
当然、家畜産業なども改め、家畜動物たちが酷い体験をし続けることがないようにもしなければならない。
同時に、そうした改革で失業者や生活困窮者が出る場合には、良き仕事や生活保護なども提供しなければならない。
そうした者たちに最高最善の自給自足アイテム群を提供すれば、また、政治や法律でそうした自給自足自治の場が保証提供されれば、自給自足的な仕事と生活保護が同時に提供できる……
一部の支配者が、永続的に将棋やチェスの手駒のように体験者たちを好き勝手に支配し、一部の支配者たちやその部下やイエスマンたちにだけ都合がいいように体験者全体を自分たちが自由にできる手駒にしてしまおう……などと思うべきではない。
当然、生活困窮者をわざと生み出すような天災群や戦争群をわざと引き起こすようなことも止めさせねばならない。
でなければ、いくら生活困窮者を善意の者たちが助けても助けても、次から次へと生活困窮者をそうした方法でわざと発生させる悪党が世界でそうしたことをし続けていたのでは、ついには生活困窮者ではない者たちまで永遠に生活困窮者を助けるための奴隷状態にされてしまうからだ。
さらには、自作自演の戦争劇を生み出せば、殺し合いなどしたくない者たちにまで殺し合いを無理やりさせる状態を生み出してしまう。
困っている者たちを皆で助け合いなさいと言う前に、まずは確信犯で天災や戦争やその他の行いで生活困窮者をわざと生み出し続けている者たちの犯罪を止めさせなければならない。
でないといくら助けても助けてもキリがない。
そんな状態では実際の被害者たちだけでなく、皆を救いたいと願う甘太郎一族ですら、永遠に苦しみ続けなければならず、永遠に人助け拷問を強制され続けることになる。
この点も絶対に改めてもらわねばならない。
ムゲン一族の統合体は超時空聖体たちなら、そこまでわざわざ言わなくてもそのくらいのことは理解しているはずだと思いつつも、大事な目標を誤解してしまったり、うっかりミスなどをしやしないかと心配していた。
不自由な世界群を内包している意識世界の存続の可否がかかっているのだから、よもや失敗などしないだろうと思いつつも、万が一の意識世界改革失敗……とならないかと心配でしょうがないのだ。
その意識世界改革に失敗してしまえば、不自由な世界群とリンクしているありとあらゆる世界=その意識世界の創造主たちの世界、その意識世界の創造主たちが創造した霊的存在たちの世界、全宇宙を含む物質世界や生命世界……のすべてが消滅してしまうのだ。
ムゲンは、0地点からの甘太郎たちによる新世界創造も最悪必要なのかもしれないと思いつつも、何とか不自由な世界群を含んだ意識世界の改革が成功して欲しい……と願っていた。
そして呪文のように目指すべき目標を再度テレパシーで超時空聖体たちに伝えた。
「本当の自由の提供」
「体験の自治権の提供」
「最大限の素晴らしい体験の選択肢の提供」
「あらゆる体験者がそれぞれ自立しスタンドアロンで必要十分に満足できる状態の提供」
と。