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【預言の吟味の学び】旧約と新約以降の預言の違い
【預言の吟味の学び】旧約と新約以降の預言の違い
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
2018(平成30/聖書暦5778)年7月28日 初稿
2020(令和2/聖書暦5780)年4月5日 改訂
『私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」』
使徒の働き15章11節
『こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。』
ヘブル人への手紙9章15節
『神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。』
コリント人への手紙 第二 3章6節
『ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。』
コリント人への手紙 第一 4章5節
『というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。』
コリント人への手紙 第一 13章9節
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『預言者の落とし穴と原則』ビル・ハモン著、クリスチャン・インターナショナル・アジア発行、2000年9月7日初版発行、定価2000円+税
P.180-201 第一六章 実行すべき預言の原則 より https://amzn.to/2NYAagk
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第一六章 実行すべき預言の原則
おそらくどの本物の神の働きでも、今日教会で出現し始めている預言運動は、相当な論議を引き起こしています。クリスチャンたちは、預言者と預言について、聖書が何を述べ、何を述べていないか、また経験したことが何を立証し、何を立証していないかについて討論しています。このような議論の間、預言のミニストリーの起源、性質、役割、範囲について、多くの質問が出されてきました。時に人々は単に好奇心が強いだけですが、預言的にミニストリーをする訓練を受けている人々にとっては、実用的なアドバイスをしようとしています。
(中略)
聖書と経験
この部分での答えは、「聖書」と「経験」双方に基づいています。クリスチャン人生の大部分と同じように、この二つの理解の源は互いに啓発すると思います。私たちの経験したことを理解するために、聖書に向かうことと同じ様に、しばしば経験したことが、新しく私たちの聖句の理解を深めるのです。
例えば、若い時、私は生まれ変わることについての聖句を読みましたが、個人的に生まれ変わる経験を与えられた時に初めて、その聖書の言葉を理解したのでした。他の聖書の真理に関してもそうです。例えば、聖霊のバプテスマ、奇跡的な肉体のいやし、いろいろな精神的また感情的な問題からの解放に関してもそうでした。
この原則は、私の人生における全部の預言ミニストリーに関しては特にそうです。四十年近く、あらゆる状況で何千人もの人々に預言ミニストリーしたことは、私に最も一般的に問われる質問を予測し、単に理論でなく、個人的に立証され、実践的な答えを出せるように助けてくれました。
もちろん、次の洞察はその論争の「最終的な答え」として提供してはいません。何年もの預言ミニストリーの中で、私が一つだけ何か学んだとすれば、それは神が持続的に新しい事をされ、無限に創造力があらわれるということです。神のご性質が誠実で、不変であり続けることに私たちはいつも信頼しますが、神はしばしば私たちの固定観念や神学的な仮定と一致しないように働き、私たちを驚かせます。
神は、神に関する私たちの小さくて弱々しい概念よりもはるかに大きく、私たちが想像できないほどに、いろいろな方法を用いて人間にお語りになるのです。ですから、私たちはこれらの領域を学ぶことをやめてしまわないことを期待します。同時に、次の質問と答えが、成長したいと願われている預言的教職者に役立つ洞察を提供することを願います。
質問一.偽預言者を決めるための旧約聖書の基準は、新約聖書の預言者と預言ミニストリーにおいても有効でしょうか?
旧約聖書では、一つの罪によってアダムとエバは園から追い出され、一つの間違いによってモーセはカナンの地に入ることができず、一つの罪によってルシファーは天から追放されました。そして次の律法の基準によれば、一つの間違いによって人は偽預言者と判断されました。
「ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。・・・預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」(申命記一八・二〇、二二、一三・三三参照)
なぜそれほど厳しい基準であり、それほど過酷な罰であったのでしょうか。モーセの律法の下で、祭司たちはいけにえと奉仕を通して、神の前で人間を代弁した一方で、預言者は「神はこう言われます」で始まる神の裁きと命令を通して、人間に対して神を代弁したのです。神に人間を正しく代弁しないよりも、人間に神を正しく代弁しないほうが厳しかったように思われます。
この理由によって、旧約時代の預言者は、口を開けるたびに、主の言葉をそのまま(正確に)語るように要求されていました。国全体を誤りに導く危険性があったために、間違って語ったり、無遠慮に語る余裕がなかったのです。
さらに、神は、言われている事と一切関係していないのに、人が「神が言われます」と語ることを非常に憤慨されます。「神が言われます。」や「神は私にこれを語りなさい、あれをしなさいと語られました。」と言う事は決して微々たることではありません。預言で言って欲しいことに付け足したり、欠如したりする人々に、神は裁きを宣言されるのです。(申命記一三・一〜一一、レビ二二・一八〜一九参照)
新約聖書の恵み
新約聖書の恵みのもとで、預言者でも牧師でもなく、イエス・キリストこそが私たちの仲介者であって、私たちが信頼できる、完全にされた聖書があります。これによって、預言者と預言の必要性がなくなったわけではありませんが、旧約聖書に比べてそのようなミニストリーの責任は一層少なくなりました。神は永遠であり、変わることがありません。しかし、それぞれ神の摂理の間に、確立された異なった基準に基づいて、人間と働かれます。教会における神の摂理の中でミニストリーをしている預言者は、旧約時代の預言者より多くの恵みを与えられているのです。
したがって、預言者のミニストリーと言葉の正確さは、本物の預言者であるか偽預言者であるかを決める基準のほんの一部でしかありません。預言者の個人的な人生の他の領域について、つまり、前述したように、道徳面、結婚状態、金銭面、動機づけや他の一〇のMを、信用の証しとして考えるべきなのです。預言の落とし穴の章において、バラムについて語られたことを忘れないで下さい。彼の言葉は「正確」でしたが、人格と生活習慣のために、「偽預言者」であると判断されました。
難しい窮地(ジレンマ)と二重の基準
預言ミニストリーの中で働く人々は、たいてい難しい窮地(ジレンマ)を示す、立場が不安定になる所に置かれます。もし、自分を完璧で決して誤まらない者として前に出て、預言的宣言が必ず間違っていないと断言するなら、異端であると決めつけられるでしょう。なぜなら、聖書は「神だけが決して誤まらない」とはっきり教えているからです。すべての堕落した人間は、一人残らず土の器なのであって、パウロが言ったように、「鏡にぼんやり映るものを見て」いるに過ぎないのです。(Ⅱコリント四・一七、Ⅰコリント一三・一二)ですから私たちはみな、誤りや間違いを犯しやすいものです。
それにもかかわらず、もし預言者が、今日間違って成就しない言葉を語ることによって誤りを起こす者であると立証するなら、教会のある部分から「偽預言者」であると責められます。そして、実際にそう呼ばれる機会を望む人々はさほど多くはないでしょう。もしかすると、この窮地は、預言者が自分たちの賜物や啓示によって高慢にならないようにする、神が備えられた守りの一つであるかもしれません。ミニストリーをする時、預言者は自分が「屈辱的人間」であることを悟らないといけません。ですから、預言の言葉一つ一つのために、神の恵みに完全に頼りつづけなければならないのです。
全てのミニストリーに対する責任
偽預言者あるいは不正確な預言について語られる時、他の五役者の責任の必要性を考慮せずに、ひんぱんに預言者の基準が過度に強調されます。預言の務め以外の五役者は、全ての意見が一〇〇%正確でなくてはならないという基準を求められているでしょうか?確かに、「主がこう言われます。」という言葉自体、権威が主張されるために、より偉大な責任を要求されます。しかし、このことは、教師の教義や牧師のカウンセリングにおいて、責任を問われる必要性を無にはできません。使徒ヤコブは、特に教師たちが、より大きな責任を問われると指摘しています。(ヤコブ三・一)
私たちは二重の基準を用いすぎます。もし、いやしを行なう伝道者が、一〇〇人もの病んで死にそうな人々のために祈って、二人が奇跡的にいやされるとします。人々は興奮して、来た時と変わらなく病んだまま帰る九十八人については何も言わずに、この二人のことを言い広めるでしょう。反対に、預言者が一〇〇人にミニストリーをして、九十八人が具体的で正確な預言をいただいたとしたら、人々は確実に、不正確な預言をいただいた二人のことをより覚える傾向があることでしょう。
預言のミニストリーに責任を負わせるために、あるクリスチャンたちは、預言者一般に対して、「魔女狩り」的な心的傾向を発育させるのです。そして、個々の預言者の間違いを一つ残らず発見しようとするのです。これは聖書的な責任の負わせ方ではありません。そして調査員自らが、自分の罪と失敗を全て世界に明らかにされる危険にさらされることになります。なぜなら、「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」(マタイ七・二)とあるからです。つまるところ、ミニストリーは、それぞれ自分が失敗を犯してきたことと、これから多分多くの失敗することを知って、他人の失敗に対して恵み深い態度を持つべきだと言えるでしょう。
用語の定義
「偽(False)」と「不正確(Inaccurate)」の預言に関する私たちの理解を明らかにするために、用語を定義しなくてはなりません。「偽(False)」とは、真ではない、不正解、間違っている、真実性に欠ける、嘘、不誠実、誤り導く、本物ではない、と定義されています。それは、動機が不純で、わざと誤まり導くことを意味する「だます(惑わす)」という意味のラテン語の原語から由来しています。
他方、「不正確(Inaccurate)」は、正確でない、厳密でない、訂正しない、本物と一致していない、誤りのある、と定義されています。預言の言葉が「不正確」であると指摘することは、語った人の動機や意図について何も暗示していません。ただ単に、預言が客観的に熟考された事実と一致していないと言っているだけです。
自認するように、この二つの定義は少し重なり合います。現代の一般的な慣習では、欲や動機に関係なく、「偽(False)」を「不正確(Inaccurate)」という意味に適用されてしまいます。しかし、「外側の事実」と「内面の動機」の違い、「預言された内容」と、「預言した人の人格」の違いを強調するために、この二つの定義を別個のものとして考えるべきだと思うのです。
この理由によって、私は「偽預言」という用語を、動機が不純であり、意図的に(わざと)語られた預言に対して適用しています。そして、「偽預言者」という用語を、人格が正しくない預言者に適用しています。「偽(False)」は、欺き(だまし)、嘘、誤まった動機、という意味を含みます。教職者が「偽(False)」と呼ばれる時、その用語は、その人の生活習慣、教理、誠実さ、霊に対して異議を申し立てるのです。
他方、「不正確(Inaccurate)」という言葉は、確認された事実と一致しない預言を指す時に使われます。ある預言の発言が、「不正確(Inaccurate)」であると言うことは、教職者の人格を問われるのではなく、語られた言葉が、具体的に正確であるかということに異議を唱えるです。
一見「不正確」な預言に思える預言
不正確な預言を取り扱っていく中で、本当に間違っていると判断する前に、預言の不正確さを立証することが非常に大切です。語られた時点で、多くの預言は一見、不正確であると思うことがありますが、十分な時間と経験から全体的に正しく見ると、正確であると判断されるのです。いくつかの聖書からの例が、この真実性を明らかにしています。
新約聖書で、このような預言の最も明確な実例は、病のために死んだラザロに関してのイエスの預言です。(ヨハネ一一・四)(忘れないで下さい。預言の定義は「神が語ること」ですから、この発言は適格です。)イエスは弟子たちに言いました。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
これは、正確な預言でした。イエスがラザロを死からよみがえらせなさった時、彼の病は死では確かに終わらなかったのです。しかし、弟子たちはイエスが最初に預言した時も、「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」(一一節)と後で言われた時も、弟子たちはイエスが何を言わんとしているかを理解しませんでした。ですから、最終的に主は弟子たちに、「ラザロは死んだのです。」(一四節)とはっきり言わなければなりませんでした。
ラザロが死んだことを知った時、弟子たちが何を考えたのか想像してみてください。「あなたは、病が死で終わることがないと言いましたが、実際ラザロは死んでしまいましたよ。」と強く主張して、弟子たちは簡単にイエスを不正確な預言を語ったとして責める事もできたでしょう。数日後、ラザロのよみがえりを目撃した時に、ようやく彼らはイエスの語った預言が正確であったかどうかを本当に判断できるようになったのです。
理解するには、しばしば待たなければならない
この実例によって、私たちは、預言的発言の中の特定の言葉の真の意味を、いつもすぐには理解しないということを教えられるべきです。一般に使われる預言の用語の解釈のしかたを、シリーズ第一弾の一一章(※引用者註『預言者と個人的預言』第10章 預言術語)を見て、習うことはできますが、神は私たちが普段予想しない意向を示す、言葉や言い回しを使うかもしれません。ですから、しばしば私たちは待って、時間と経験によって、そのことばの真偽を証明させなければなりません。
この実例の場合、ラザロの病が死で終わらないとのイエスの宣言は、ラザロが全く死なないという意味ではありませんでした。弟子たちはその意味だと単に推測したのです。彼らの経験においては、人のよみがえりが含まれていなかったからです。十分な経験を持った後に、彼らは預言の正確さを判断する事ができました。
経済、結婚、妊娠、奇跡に関する同じ様な預言を私は多く聞いてきました。それらは表面上、何もかもうまくいくと思えるように見えましたが、結局は最終的にすべてがうまくいく前に、破産、離婚、流産、健康の悪化などが起こったのです。
ヒゼキヤに対するイザヤの預言
この種類の二つ目の実例は、旧約聖書からです。ユダヤの王ヒゼキヤが、深刻な病に伏せている時、預言者イザヤに主の言葉が与えられました。それは、ヒゼキヤに「あなたは死ぬ。直らない。」(イザヤ三八・一)と言う事でした。しかし、ヒゼキヤが神に命の長らえることを祈った時、主はイザヤを送り、「わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。」と語られました。(五節)この二回目の言葉は断固としたもので、日時計に降りた日が一〇度戻る奇跡的なしるしを伴いました。
これらの言葉が公の場で語られるとしたならば、初めの預言を知っていて、二度目の預言を知らない人の立場になって、想像して見てください。ヒゼキヤが残りの一五年間生き続けた時、おそらくあなたはイザヤの預言を不正確な預言だと思われることでしょう。二回目の預言を聞いた経験があったときのみ、最初の預言を正しく判断できるのです。
このような状況において、公の場で語られたり、「口コミ」で広く分かち合う預言は、人々が正確さを公平に判断するのに必要な知識を全て持っているとするならば、多くの者につまずきを与える事になるかもしれません。多くの場合、預言の言葉の正確さは、その状況と、後日何が起こったのかを知る人々だけに取り決めることができるのです。
ヨナの「条件つき」裁きの言葉
似たような例は、ニネベの町に対してヨナが宣言した神の裁きです。その言葉は、真に神からのものであって、無条件に下されるものでした。それは、「もし悔い改めるなら、あなた方は破滅から免れ、」とは言いませんでした。ただ、「四十日以内に、ニネベは滅ぼされます。」と言ったのです。しかし、ニネベの人々が悔い改め、憐れみを求めた時、神はさばきを下すことを取りやめました。ところがそれによって、ヨナは自分の名声を心配し始めました。もちろん、心配し始めたことは不思議ではありません。人々から、ヨナが不正確な預言をしたように思われたはずでしょうから。
しかしながら、その預言が真に本物でありながらも、神のあわれみのゆえに、暗黙の条件のために成就しませんでした。状況をすべて知っていた者たちだけが、その預言を公平に判断できたのです。
今日、ただ単に、無条件に預言が成就しなかったからと言って、その預言は神からのものではないと決めつけないように注意しなければなりません、預言に関する人間の応答こそが、それを確証したり、撤回することができるのです。たとえそれが、何の条件もはっきり示されていないとしても。
最近の例から
私たちのスタッフがある時、ある女性に、所有しているお金のかたまりについて預言し、神がそのお金をどうやって投資すればよいのかの知恵を与えますと預言しました。彼女の牧師は、私の預言の言葉は間違っていると思っていました。なぜならば、彼女が給料日から次の給料日までぎりぎりの生活をしているという、彼女の経済状況よく知っていたからでした。
それにもかかわらず後に、その牧師は、間違いだと判断するのに必要な情報全てを知っているわけではなかったことに気が付きました。実際、彼女は期待していなかった保険金を突然得たばかりであったのです。預言の言葉は、完璧に彼女の状況に当てはまっていました。
多くの預言は、似たような状況で語られています。ですから、私たちの持っている情報によって、その預言が不正確だと早とちりに判断しないようにしなくてはなりません。時間と経験は、私たちの考えを立証せずに、預言の言葉を立証するかもしれません。
不正確に思える預言
預言の正確さに関して厳しい基準であった旧約時代においても、国で有名な預言者が、一度、王に間違った方向性を与えたのにもかかわらず、偽預言者として呼ばれることも、その間違いのために打ち殺されることもありませんでした。この状況は、ダビデ王が宮廷預言者ナタンに、主の契約の箱のために宮を建てたいと言った時に起こりました。(Ⅰ歴代誌一七・一〜四)
ナタンは答えました。「あなたの心にあることをみな行ないなさい。神があなたとともにおられるのですから。」しかしその晩、神の言葉が来て、その言葉を訂正し、ダビデに次の言葉を言うように命令したのです。「行って、わたしのしもべダビデに言え。主はこう仰せられる。あなたはわたしのために住む家を建ててはならない。」と。
推測の預言
自認するように、ナタンがダビデに最初に言った言葉は、「主がこう言われます。」という形を取りませんでした。しかしながら、聖書の記事はダビデが預言者としてのナタンに話しかけ、ナタンは神からの指図として語ったと強調すると思われます。ダビデが王として語ったように、ナタンも預言者としての立場から、権威をもってダビデに語りました。ですから、聖霊からの言葉ではなく、ナタンの自分の霊から出て語った、推測の預言であったと言えるでしょう。
ナタンの二回目の預言は、一回目の預言が間違いであり、その言葉を取り消すべきだということを教え、その一回目の預言をきっぱりと否定しました。しかしながら、ナタンが謝ったとか、どのようにでもダビデとイスラエルの指導者たちに自分の言葉が誤りであったと認めたとは、聖書に書かれていません。その理由は、そのようなことは不必要であり、またそれによって、神の預言者としてのナタンの評判を失うことはありませんでした。
このことは後にナタンが、バテ・ジェバへの欲望に対しての姦通と殺人の罪を、ダビデに突きつけた時から見ても明らかです。(Ⅱサムエル一一章参照)ダビデは、ナタンが一度「はずれた」預言をしているという理由で自分自身をかばい、以前の間違いを理由に、その叱責を無視して彼の預言ミニストリーを非難することができたはずです。しかし、その代わりに、ダビデは直ちにナタンの矯正を受け入れました。そのことは、記録された一つの間違いを理由として、ナタンの預言的な権威が傷つけられなかったことを示しています。ダビデは、ナタンが神からの権威と承認を受けて遣わされていることを認めました。また預言者は、神の代弁者として、王を矯正したのです。
ツロにいる弟子たちのパウロへの預言
パウロが最後の伝道旅行で、再びアジアからエルサレムへ戻る道中で、ツロにいる信者と交わるためにとどまりました。聖書によれば、この弟子たちは、「彼らは、御霊に示されて、エルサレムに上らぬようにと、しきりにパウロに忠告」しました。(使徒二一・四)
この旅行の優先目的は、他の町々の信者から、エルサレムの教会に多額の献金をもっていくことでした。(使徒二四・一七、ローマ一五・二七)パウロは、その献金を他の人々に委ねて送ることもできたはずでした。特に、エルサレムでは危険が待ち受けていると警告された後ではなおさらです。しかしパウロにとって、それは、自分が奉仕してきた異邦人からも献金を得られた、特別な目的をもった特別献金でした。
この特別献金は、異邦人の信者たちが、福音が最初に始まった民への感謝として、ユダヤ人の指導者たちに形で表わしたものなのです。その時パウロは、経済的援助だけを扱ってはおらず、初代教会を悩ませたユダヤ人と異邦人との間で絶えず誤解しあっていた中にあって、一致を宣言していたのです。ですからこの献金を自分で持っていく意欲は、キリストの体において本当の霊的父である自己犠牲のしるしだったのです。
この神の目的を考慮して、パウロはエルサレムへ行く自分の決断が、聖霊によるものだと確信していたことがわかります。以前この旅行について、「心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。」(使徒二〇・二二)と言っていました。ではなぜ、ツロの弟子たちが「聖霊に示されて」行ってはならないと言ったのでしょうか?(この預言のジレンマの成り行きは、質問七でより細かく見ていきます。)
神からの啓示に付け加える人間の適用
私が個人的に思うには、これらのクリスチャンたちは本当に、聖霊を通して神からの啓示をいただいたのです。パウロがエルサレムへ行くなら苦しむことになるであろうと、そこまでは正確でした。私の個人的な経験と、どのように純粋な啓示を受け取り、不完全な人間の器を通して表現されるのかという理解によると、彼らが啓示されたことについての適用と解釈を持ったかもしれないと言うことです。単に、「危険がエルサレムで待ち受けている」と言う代わりに、「行くべきではない」と語ってしまったのです。結局パウロを守りたい自分たちの望みが、結果として聖霊が彼らを通して表現しようとしていたことではなく、心が生み出したことを適用したのです。
聖書は、ツロのクリスチャンたちの不正確に思われる解釈のために、彼らが非難されたとは記録していません、パウロは、教職者たちに「ツロの弟子たちの預言に用心しろ」とは手紙を送りませんでした。反対にツロの教会も、パウロが身勝手で、預言的に示された神のご意志に反抗していると書かれた報告書を送りませんでした。預言した人々が石で打ち殺されたり、偽預言者の烙印を押されることもありませんでした。しかし、パウロの反応で示された、彼らの言葉に対する評価によると、彼らは個人預言をすることに「はずれ」たのでした。
パウロに対するアガボの預言
ツロで預言をもらった数日後、パウロはエルサレムへ行く途中、カイザリヤで出会った、イスラエルから下ってきた預言者アガボから預言をもらいました。この新約の預言者は、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って、次のように語りました。「この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人に、こんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される。」(使徒二一・一一)
聖書の物語によると、実際には成就しなかった二つの特定の細部があるように思われます。第一に、ギリシャ語では縛る、結ぶ、束縛を意味する「縛る」という言葉と関係します。第二に、「渡す」というギリシャ語から来ている、降伏、引き渡す、手放すと意味する言葉です。百十九回も新約聖書で出てくるこの言葉は、言葉の感覚においては、何かや誰かを、意図的に、自覚して、手渡すという行為の概念です。
後に、使徒の働きの中で、エルサレムでパウロに何が起こったのかを読む時(一七〜四〇節)、この二つの細部が不正確であることがわかります。実際は、ユダヤ人はパウロを縛って、ローマ人に渡しはしませんでした。反対に、ローマ人がユダヤ人から彼を奪って、ローマ人が縛ったのです。ローマの千人隊長が手紙で総督に報告したように、ユダヤ人の意志に反して、パウロを「助け出した」のでした。(使徒二三・二七)
それは正確だったでしょうか?
アガボが別の時期、大飢饉が起こることを正確に預言したことをルカが述べたように、預言の明確な成就を述べることが、聖書の著者たちの癖であったことを覚えましょう。(使徒一一・二八)しかし、ルカは注釈なしに、使徒の働き二二章におけるエルサレムでのパウロの逮捕の事件を記録しています。
もし、預言者が不正確であったのなら、預言を判断するカイザリヤの長老たちの能力と義務はどうでしょう?預言が語られた時、伝道者ピリピ、彼らの預言的洞察力のするどい四人の娘たち、パウロと共に旅行していた何人かの長老たちを含む人たちが居合わせていました。(使徒二〇・四)預言者が、彼らの使徒に間違った預言を語っていると見分けたのなら、当然に反応を示したと思いませんか?
この状況は、パウロが後にローマにいたユダヤ人の指導者たちに、「エルサレムで囚人としてローマ人の手に渡されました。」と報告したことによって、さらに混乱されるのです。(使徒二八・一七)(同じギリシャ語の単語)「手渡す」という言葉を、不正確に預言で使ったのであれば、なぜ、パウロは同じ言葉を使ってその出来事を描写したのでしょうか?
このことから私たちが習う最大のことは、もしかしたら、預言の正確さを取り決めるに当たって、きめ細かく一語一語を分解するのを避けるべきだということではないでしょうか。アガボの預言のように、一見不正確に思える細部は、神が伝えたい全体的な目的の中で、あまり重要でないのかもしれません。ですから、私たちは重要でない細部のみによって、預言を不正確であるとすぐに判断することはしないようにすべきです。
謙遜と責任を負うこと
預言的教職者は、人間であり、全員誤りを犯しがちであるので、一番良い作戦は、ミニストリーをしながら調査と矯正を求めるような、謙遜の霊を養うことです。私たちはキリストの体として、霊的監督と、他のリーダーたちと、責任のある関係を保持するべきです。
CI-NPMのコンファレンスで語られる個人預言は、全て録音されます。これによって、預言した人は、言ったことに対して責任を負うこととなり、預言を受けた人は誤用したり、何を言われたか正確に覚えなかったりすることに関して責任を負うことができます。
さらに、CI-NPMの教職者たちが、いつでも自分の教会や団体外でミニストリーを行なう時、招待先の主任教職者にそれを評価する書類を渡してくれるように要求します。この機密書は、調査のために、直接CI-NPMネットワークの総監督に送られます。この二つの保護手段が、不正確な預言を取り扱うために、効果的な責任の機能を提供すると私は思います。
一見不正確に思える預言を追究する
不正確な預言に対しての適切な追究は、広範囲にまで預言が語られた時と場所と状況によります。もし地域教会で語られたのなら、適切な追究は、地域教会の長老たち、語った預言者、彼の霊的な監督、預言を受けた人全員が関係すべきです。
その不正確な言葉を聞いた会衆が、全国でなく地方であれば、追究の時点で、その出来事を全国的に宣伝して注目を集める必要は一切ありません。しかし、その預言が全国的に出版されたり、テレビに放送されたのであれば、同じ会衆で公の追究が必要です。
動機が何か?
このような追究をする動機を調べるべきです。その預言を受けた人を助けるために、追究が必要なのでしょうか?もし、その預言の結果から混乱と疑いが生じるのなら、その人にカウンセリングが必要なのかもしれません。しかしながら、反対に、それほど助けにならない他の動機があるのかもしれません。例えば、誰かが単に、その預言者が間違っていることを証明したいという理由で動機づけられているのでしょうか?
聖書には書かれています。「長老に対する訴えは、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません。」(Ⅰテモテ五・一九)これは、偽の報告によって中傷されるかもしれない指導者たちの保護のためです。簡単に、誰かの性的な道徳性や、経済的誠実性に対する告発を受け入れることがないように、私たちは注意すべきです。同様に、事実が告発を裏付けることが絶対にできない時、誰かが「その人が偽預言をした」と宣言して、その人のミニストリーを中傷することから避けるべきです。そして、不正確な預言が裏付けるような時であっても、「懲戒に関する神の目的が、あがないと和解である」ことを理解する成熟した信者によってその追究は取り扱われるべきです。
もし不正確な預言が地域教会で公に取り扱われたのなら、その預言者のミニストリー全体の前後関係と照らし合わせて、釣り合いのとれて、全体的に把握できるように会衆に提供すべきです。人々に対して、一つの不正確な預言に加えて、行なわれたかもしれないその預言者のすべての正確な預言と、良質のミニストリーが明らかにされるなら、幾人かは神の本物の預言者に対して、疑い深い態度を発達させることを防ぐことができるかもしれません。
(終)
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『預言者の落とし穴と原則』ビル・ハモン著、クリスチャン・インターナショナル・アジア発行、2000年9月7日初版発行、定価2000円+税
P.180-201 第一六章 実行すべき預言の原則 より https://amzn.to/2NYAagk
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更なる学びの為のリンク集
【預言の吟味の学び】「預言の矛盾」
https://note.mu/risingdestiny/n/ncb3792dd4552
預言には二つの次元があります。
一つは「預言のミステリー」であり、もう一つは「預言のクライシス(危機)」です。
ミステリーとは預言で明らかにされないで隠されている部分です。神は初めから終りを告げることができるお方ですが、その間のことを言われないことがあります。それが教会にフラストレーションを与えるのです。例えば、神はパウロにこう言われるでしょう。「『あなたは異邦人に福音を伝えるわたしの選びの器です』とわたしは言いました。でもわたしが言わなかったことがあります。あなたは打ち叩かれ、町から追い出され、兄弟から裏切られ、マルコは途中で帰ってしまい、バルナバとは別行動をするようになり、銀細工人に暴動を起こされ、、、ということは言いませんでした。」と。神はパウロが人生おいて経験する途中のプロセスを全部は明らかにはされませんでした。
「預言のクライシス(危機)」というのは、預言を受けた者が予期するものと、実際に起ることの間に違いがある時のことです。私たちが予期し期待することは、必ずしも私たちが受けるものとは違うのです。預言を聞いたとき、私たちはその言葉の意味することは分かったと思ってしまいます。「主は私を繁栄させると言われました。だから私は繁栄するのです。」と考えるのですが、次に起るのは破産だったりするのです!
あなたは主に「私を繁栄させると言われたのではないですか?」と訊ねます。すると主は「わたしはあなたを確かに繁栄させているよ。」と言われます。つまり主はあなたを繁栄させるためにプロセスを通されているのです。プロセスとはある時は経済的繁栄のために必要なものであり、それは困難や問題をあなたに与えることかもしれないのです。
【預言の吟味の学び】偽預言者とは何か
預言が外れたら偽預言者なのではありません。預言が当たれば真の主の預言者なのではありません。なぜなら、イエス様が認め聖書書簡にその名が冠されている預言者ですら、間違って預言したからです。預言者を見分ける十のMリスト付
https://note.mu/risingdestiny/n/n337d2d0b93f9
【預言の学び】預言とは&個人預言を受ける際の注意点(改訂版)
イエス様もなさった個人預言 の聖書の実例の解説、現在の個人預言の映像リンク集付き
https://note.mu/risingdestiny/n/n916fab966ed5
どう思われますか?
私達は全員罪を犯しており、神の裁きにふさわしい者達です。しかし、父なる神様は彼の独り子を信じる者達のための裁きを満たすためにキリストを送られました。創造神かつ永遠の神の息子であるイエスは、罪のない人生を送られたのですが、私達が受けるはずだった罪の罰の身代わりとして死んで下さったほどに私達を愛しておられます。彼は葬られ、聖書に書かれている通りに死人の中から甦られました。もし、あなたがこのことを本当に信じ、心から信頼するなら、イエスのみをあなたの救い主として受け取り、「イエスは主です」と宣言して下さい。そうすれば、裁きから救われ、天国で神様と共に永遠を過ごすことになります。
あなたはどう応答されますか?
もしあなたがクリスチャンではなく、今クリスチャンになりたいのであれば、ただこう言って下さい。「主イエス様、私の罪を赦して下さり感謝します。今日、私はあなたに従うことを決めました。私をあなたの家族の中に受け入れて下さい。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」
詳しくは以下のリンク先を参照して下さい。
👉【福音】新しく生まれ変わる!(新生の祝福)
https://note.mu/risingdestiny/n/nb11945f61b7a
【なぜ、ライジング・デスティニー(シャイニング・デスティニー)を始めたのか(過去20年間の日本宣教史年表付) 】
【The Reason We started Rising Destiny (Shining Destiny): The History of Japanese Mission in the Past 20 Years】
https://note.mu/risingdestiny/n/nc415e4303df2
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