見出し画像

アレグロ・バルバロ 6

 朝から雨がしとしとと、もう何時間も降り続いていた。水滴で濡れた窓硝子越しに見える世界は、まるで巨大な水槽に閉じ込められているようだった。

 こんな日は、配達の仕事はできないだろう。町の住人達も皆、家の奥深くに閉じこもってしまう。団長が、今夜の演目の延期を発表するのも、時間の問題だった。
「雨、止めそうにないね。」
どんよりと重く立ち込める灰色の雲を、窓枠に頬杖をつきながら見上げつつ、ハナは部屋の隅に居るアレグロに話しかけた。
 外を飛べない事が不満なのか、彼は朝からずっと機嫌が悪い。現に今も、部屋の隅で、どこかイライラした表情を顔に浮かべながら、本の頁を捲り続けている。読書をしている風情を装っているけれど、とてもそれを楽しんでいるようには見えなかった。
「この分じゃ、今日は一日こんな感じだろ。」
「今日の分の配達、どうしよう。」
「どうせ、公演は中止なんだろ?だったら、招待状を送ったってしょうがないじゃないか。飛べないんじゃ、俺達の役目は無い。ちょっと、外出てくる。」
そう言い終えると、アレグロは手に持っていた本を放り投げ、部屋のドアから外に出て行ってしまった。階段を勢いよく駆け下りていくアレグロの足音を聞きながら、ハナは小さく溜息をついた。
 大方、行き先は、蛇の鱗を持つ女の所だろう。
「最初に壁の向こうの側の話を聞いたのは、ハナなのに。」
小さく呟いた声は、部屋の真ん中で誰にも拾われる事なく、ぽつりと落ちて消えていった。

 アレグロの飛行には、無駄がない。
短い滑走から、ふわりと空中に飛び上がったかと思うと、まるで目に見えない階段を駆け上がるかのように、数秒後には、地上から遥か彼方上空を飛翔している。
 彼の翼を動かす姿は、優雅そのものだ。決して体格がいい方でも、翼が大きいわけでもない。だが彼は、上空の風を的確に判断し、瞬時に風の動きや強さにあわせて、翼の動かし方や向きを変える事ができるのだ。
アレグロのように飛んでみたい。
翼を持つ者ならば、誰もが、そう一度は思ったことがあるはずだ。
 それはハナとて、同じだ。もしも、この世界から、壁の外の、上空の世界へ本当に辿り着ける者がいるとしたならば、それは、ハナではなくアレグロだろう。
そして、アレグロは、今、この世界から飛び出したがっている。
火をつけてしまったのはハナ自身だ。一緒に行く事を約束はしてくれた。だけれども、その約束は簡単に壊れてしまう事も、ハナは知っている。
 だから、最近のハナは、アレグロに秘密で、飛行の練習をする傍らで、壁の向こう側の話をこれ以上、アレグロに聞かせないように、蛇の鱗を持つ女を避けていた。
 どうしたら、アレグロに追いつけるのだろうか。どうしたら、あんな風に颯爽と空を飛べるのだろうか。
アレグロに飛び方を聞けば、きっと彼は適格にアドバイスをくれるだろう。だが、そうすれば、彼に露呈してしまう。ハナの技術が壁の向こう側の遥か先の世界を目指すのに不足している事を。そして、アレグロは、ハナを危険から遠ざける為に、ハナの為を思って、一人であの世界を目指してしまう。
 それが怖かった。
今まで、無条件に信じていた。ハナとアレグロはいつだって一緒に居たのだし、これからも、いつだって一緒に居られると。
そんな根拠の無い関係は、一瞬で覆されるかもしれないという事すら、頭の片隅に浮かんでも笑ってごまかしてきた。だが、それは、根拠の無い関係に、根拠の無い安心を重ね続けてきただけに過ぎない事を、ハナは今、痛切に感じていた。
 
 どんよりとした雲は、ハナの不安な心を映し取ったかのように、世界を暗闇へと閉ざしていく。
雷鳴がどこかで鳴り響いた。
 全てを壊してしまうような不吉な音と共に、天空の闇を一瞬で切り裂いた光が、ハナ達の平穏な世界を壊す一筋の光だった事を、彼女は後で知った。



いいなと思ったら応援しよう!