鬼滅の刃を通して、あの時の言葉がやっと許せた
ずっと自分の中で許せなかった。
あまりにも思いやりのない言葉だと思った。
そこから私たちの関係は崩れていった。
今となっては笑い話だけど。
ふとそんな記憶が蘇った。
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先日、鬼滅の刃の映画を観に行ってきた。
純粋に、これだけ世間で騒がれている理由が知りたかったのだ。
そんな好奇心から始まり、「でもでもせっかく映画を観るなら満喫したいよね!」と思い、結局アニメもコンプリートした後、映画に足を運んだのだ。
その頃には随分と鬼滅ファンになってしまっていたんだけどね。
心が動かされるシーンやセリフはたくさんあった。
それらは過去の自分の感情を呼び起こすものだったり
いま自分が求めてる言葉だったり
これからありたいと思う心の声を代弁してくれてるものだったり
共感を呼ぶナニカがたくさん散りばめられていた。
暗い映画館で、自分自身の心に響く言葉をひたすらメモしていった。それを後から見返して、なぜその言葉に心が留まったのか、一つ一つ紐解いていくと、意外な過去が顔を出してきた。
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4年前、母から一本の電話があった。
その時私はニューヨークにいた。
現地の留学エージェントで働きながら、学校とベビーシッターも掛け持ちし、充実した忙しい日々を送っている頃だった。
突然、母からの電話がなったのは、学校の授業中だった。
なんとなく出ないといけない気がした。
クラスルームを出て、廊下で電話を取った。
電話口の母の声は曇っていた。
嫌な予感でいっぱいになった。
父の体調が最近すぐれないということは母からなんとなく聞いていた。だけどそんな大事ではないだろう、と軽い気持ちで聞き流している自分がいて。
まさか、まさかね。
「お父さん、癌になって、あと1年生きれる確率30%以下やって、、、」
頭が真っ白になった。
受け入れられなかった。
そこが学校だということも忘れて、泣き崩れた。
そのまま授業を受けられる状態ではなかった私は、帰宅し、ベッドの上で散々泣いた。一体涙はどこからやってくるんだというくらい、泣いても泣いても止まらなくて、頭痛と吐き気でめちゃくちゃになりそうだった。
その当時、お付き合いしていた人がいた。
彼はニューヨークで働いていたが、ちょうどその時はタイミング悪く、ビザの更新で日本に帰っていて、会うことはできなかった。
「お願いだから、出てくれ」
そんな願いにも近い気持ちで彼へ電話をかけた。
彼は出てくれた。
母から聞いたことを嗚咽混じりで伝える。
精神的に参っている状態だ。ちゃんと伝えられたのかは分からない。
ただただ、この悲しみに寄り添って欲しかった。
どうしようもなく辛くて悲しくて、一人でいたらおかしくなりそうで、だけど、ぐちゃぐちゃになった自分を見せられるくらい、心から気を許せる人はニューヨークには少なかった。
そんな中で彼は貴重な存在だった。
ひとしきり報告したあと、彼の口から出た一言目がこれだった。
「くよくよ悩んでても仕方ない。気持ち切り替えて明るくいこう。」
私は固まってしまった。
ただただ「悲しいね」って言って悲しみに寄り添ってほしいだけだった。
むしろなんの言葉もいらなかった。
そこにいてくれるだけでよかった。
びっくりしてしまった。
受け入れられなかった。
これがもし、報告を受けてから数日経ったタイミングで言われてたとしたら
これがもし、わりと仲がいいくらいの友達から言われてたとしたら
受け入れられていたと思う。
「そうだよね。くよくよしてたって仕方ないよね。まだ可能性だってあるんだし、気持ち切り替えて、できることをやっていこうと思うよ。ありがとうね。」って。
時間を置いて、落ち着いたら、余裕も出る。
まわりへ気も使えるようになる。
むしろ、かけてもらったその言葉こそが、前を向かせてくれて、背中を押してくれる言葉にもなるはずだ。
ポジティブで、とても素晴らしい言葉だ。
だけど、父の悲報を聞いた直後である。
最も距離が近く、最も信頼している人から言われた第一声がそれだったことは、受け入れ難く、私は心を閉ざしてしまった。
結局、それをきっかけに、私たちは少しずつズレ始め、綻びが出ていき、その半年後にはお別れすることになった。
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なぜ、私がこの話を鬼滅の刃で思い出したのか。
主人公である炭治郎は、家族を鬼に皆殺しにされ、唯一生き残った妹は鬼にされてしまう、というところから物語はスタートする。絶望の中でも、希望を捨てず、努力を重ね、誰にでも愛を持って接する優しい心を持つ炭治郎は、どれだけのピンチの状況でも諦めることをしなかった。
それほどまでの精神力を生み出す源は、家族への愛と妹を人間に戻したいという気持ちからだろう。
私は共感力が高い方である。
いろんな場面で自分ごと化し、人からいろんな話を聞いて感動し、胸が打たれることは本当に多い。
想像力も豊かな方だと思う。
それでも。
家族を惨殺された炭治郎の気持ちを想像しきることはできなかった。理解はできても、そこに共感することは難しかった。
だって、そんな経験したことないもの。
きっとそれって病気で親を亡くした気持ちとはまた全然違う。
そこでハッとした。
自分が経験していないものは、どれだけ想像力を巡らせても、わかりきることなんてできない。同じ目線に立つことなんてできない。
相手がどんな言葉を求めているのか。
どんな言葉が正解なのか。
センシティブなトピックであればあるほど、難しいところだと思う。
私だって、家族を惨殺され妹が鬼になったことを知った直後の炭治郎が目の前にいたら、どんな言葉をかけていいか分からないもの。
ここで学んだことは3つ。
体験に勝るものはない。想像してもしきれないことだらけだ。できるものとできないものはあるにしても、できる限り、自分の目で肌で経験を積み重ねていくことを心がけようということ。
2つ目は、そうは言っても、どこまでも相手から見える景色を想像する努力を止めないこと。想像力は、いわば相手への愛だ。自分視点から相手視点へ少しだけでも変えるだけで、優しさが巡る世界へと繋がるはずだ。
そして3つ目は、自分が欲しい言葉を相手がくれなくても、許し受け入れる優しさを持つこと。そこでムッとなったりショックを受ける自分がいたとしても、そんな自分も許してあげること。
それが、どれだけ自分が余裕のない状況にいたとしても。
いざ、こんな状況になった時に本当にできるかどうかはさておき、少なくとも、ずっと許せなかった言葉を、鬼滅の刃を通して、許すことができたことは事実である。数年の時を越えて。
物語や言葉は、自分の経験や感情の呼び水になる。
他人ごとが自分ごとに変わる瞬間に出会える。
だから、引き込まれて、魅了されていくのかもしれない。
私の言葉もそんな誰かの感情の呼び水になれたらと。
そう願い、今日も明日も、言葉を紡ぐ。