自分の中の「怒」という感情と向き合うということ
久々に頭の整理のため、そして社会人2年目となり色々と整理をしたくて文章を書いてみました。
ためにはならないですが、よければ読んでみてください。私という人がわかりやすく表れているかもしれません。
こういうの書き出す、そして公開するってなかなか難しい部分もあるのですが、温かい目で見ていただけると嬉しいです、、、
怒髪天を衝く
私が憧れている人に聞かれた。私はこの時初めてこの言葉を聞いた。
そして「激しい怒り」を表す熟語で、「髪の毛が天を突き上げるほど怒っている」様子を意味した言葉だということを調べてみて知った。
この言葉とそして意味を聞いた時、私自身とは無縁の言葉なのかなと思った。私はあまり「怒り」の感情が表に出ることはない。そもそもあまり自分の中に「怒」という感情はないのかなと思ったりもする。
どちらかというと「悲」の感情が自分の中の大きい部分を締める気がする。なので他人に対して怒るというよりは、その事象が起きてしまったことへの悲しい、辛いという感情、そして自分自信の反省をして落ち込むことの方が多い。
これは良いも悪いもない気がするけど、自分自身がそういうタイプなのだなと。
ゼロではないので怒ることもあるけど、その分エネルギーを使ってしまうことでもあるので大抵は表に出ないことが多い。
これを「冷たい」という人もきっといるし、言われたこともある。怒る、相手にその感情を伝えることはそれだけ向き合っている証拠でもあるから。
そんなことはさておき、じゃあなぜこの言葉をあえてピックアップしたのか。この言葉が無縁であると思いながらもずっと頭の中をぐるぐるしていたからだ。
なぜだろうか。
多分自分の根底にはその言葉とマッチする感情、つまり「怒」の感情があったからだと思う。それが今の仕事、そしてファンドレイザーを志した自分の原点にあったからだろうと思っている。
「違和感」の入り口
そもそも「怒」という感情に出会う前に「違和感」、何かこれまでの自分にはない、「違う」という感覚を持った話からまずはしたい。
私は東南アジアに4年間住んでいた経験がある。もう10年前だが。
当時小学生だった私にとって何もかもが違う世界だった。
通じない言語、空気の色が違う環境、全く違う宗教と文化、、、
最初は驚きの方が大きかった。
その中でやはり鮮明に覚えているのが目の前に見える「貧富の差」というもの。
運転手さんや家政婦さんがいる生活。車移動をして荷物を運んでくれる人、料理をしてくれる人、洗濯もアイロンも全ての服にしてくれて、そして床を毎日洗剤と水で掃除してもらえる生活。
でも一歩外に出れば裸足で遊んでいる子どもたち、車に物乞いをする人、窓やドア、エアコンのない近所の学校。
あまりにも衝撃的だった。
でも一つだけ不思議だったのが、どの人たちも「自分の人生」を生きていて、私は一度も「かわいそう」だと思ったことはなかった。
これは両親に感謝すべきだなと思うが、そういう言葉で伝えられたこともなかったし、そういう見方をするような家庭では育たなかった。
「あの子かわいそうよね」とか「そういう子もいるのよ」という言葉は一度も聞いたことなかった。
でも私の通っていた学校の同級生はいわゆる「お金持ち」の人たちだったので
「お金をあげれば良いんだよ」「お金があるんだからあげるのが正解」という環境の中で育ったからこその言葉やお金の渡し方をしていた。
「かわいそう」という視点はなくとも、ただ、困っているという状況があることは理解していた。運転手さんやメイドさんを雇っている立場(親が)になるので、「お金がないので前借りをさせてください」とか「田舎に帰らないといけなくなったのでお金を貸してください」など。リアルな会話から「大変な状況下にある」ということは知っていた。
純粋に小学生の私には
「なんでこんな差があるんだろう?」という「違和感」
が生まれたのをものすごく覚えている。
「違和感」の発展
日々の生活はその「違和感」を無視して進んでいくわけで、そうこうしているうちに現地での4年の生活を終え、日本に戻ってきた。
この時にまた別の「違和感」というのが私の中に生まれる。
それだけわかりやすい「差」を目の前にして生活をしていて、学校では寄付をしたり、現地の学校の生徒さんと交流をして一緒に遊んだり、「違和感」を抱えながらも同じ「人間」として同じ時間を楽しむことをしてきた。
しかし、帰国して接する人の感覚も、見える景色も大幅に変わった。道で「お金をください」と声をかけられることも。裸足のこどもを見かけることもない。
中学生になりたての私にとっては「平和すぎる国、日本」というイメージが立った数日で出来上がった。
とした時の「違和感」は、
つまり、目の前の「差」を目にした時に自分にできることやどんな形で関われるのかを考えながら生活を送っていた環境から一変して「誰も困っていない」(ように見える)生活に変わってしまい自分が「何かしたい」「できることをやってみる」という場がなくなってしまった。
「違和感」と向き合う手段としてのファンドレイジング
その「違和感」を抱えながらも日本での生活に慣れることに必死だった私にとっては毎日があっという間だった。長く海外にいた私にとっては日本語もまた難しく勉強についていくことだけでも大変だったのであまり色々と考える余裕はなかった。
が、その中でも続けていたのが「ボランティア活動」だった。
こういう活動が積極的な学校にいただけあって機会はたくさんあった。
マラソン大会の運営サポート、イベント運営のボランティア、地域のお祭り出展のサポートなどなど。
イベントが多かったが、その中で出会うのがNPOを始めとする非営利団体やその中の方々。
NPOという単語も初めて聞くし、そういう活動をしている人々を初めて知った。
そしてそういう偶然が重なってファンドレイジング・日本という、寄付やファンドレイジングに関する実践的で身近な事例や新しい動き、世界の今を伝える国内最大のカンファレンスに参加することになった。
ここで高校2年生の時に初めて「ファンドレイジング」という概念と出会う。
カンファレンスの内容はほとんどわからなかったものの「ファンドレイジング」というものにすごく興味を持ったのと
であるのではないかと考えた時にものすごくワクワクした感情を覚えている。
東南アジアで感じた「違和感」とNPOさんに「応援が必要」である、かわいそうな存在ではないものの応援を集めた上で活動が成り立つという事象はどこか私の中で結びついたのだと思う。(うまく伝わらない可能性もありそうだが、、、、)
そしてその「応援を集める」つまりファンドレイズをするということに大きな役割を果たすのが「ファンドレイザー」であることを知った。
ファンドレイザーを志す、その根底にある想い
ファンドレイジング・日本(FRJ)を通して「ファンドレイジング」というものと出会った私はそのまま大学で勉強し、新卒で現在ファンドレイザーとして仕事をしている。
それだけ衝撃的な出会いであり、しっくりきたものがあったのだろう。
じゃあその根底にあるものって何なのだろうか。
ここで改めて「怒」という感情を向き合ってみる。
別にずっと怒っているわけではありません(笑)
ただ、NPOや非営利の活動への「お金の偏り」に違和感とどこか「怒」のような感情があって、それを変えられる手段としてのファンドレイジング、それができるようなファンドレイザーになりたいという想いは強いと思っている。
どんなに小さい団体であっても生活や命をかけてその活動、そして受益者と向き合っている。
でもそこにノウハウや余裕がなくて知られていない、応援や寄付、支援が集まらない。
本当に勿体無い、そして悲しい。
ここに一部「怒」みたいなものもあるのだろう。
そんなことを思ってファンドレイザーをしています。
だからちょっとは「なんでだろう?」「もっと知ってほしいのに」という気持ちに「怒」は入っているのかなと。
それがもちろんエネルギーに変わって今の仕事のモチベーションがあるのだとも思う。
「怒」という表現の難しさ
こういう話は実はあまりしてこなかった気もする。
ただ、違う業界で活躍する同世代の人にも「僕はある意味怒りがエネルギーになって、そして何かを変えたいから今この業界にいる」という話をされた。
全く違う業界だったけどなんかすんなり理解できる部分があった。
つまり何かに対して怒っている!という状態ではなく、「何かを変えたい」その感情の一つに「怒」というものがあって
それがエネルギーとなって頑張れているのだろう。
ただ「怒髪天を衝く」とまで言ってしまうと「めちゃくちゃ怒っている人」になってしまうので難しいですが、それがバネになって頑張れる人もいるんだなと。
そしてこう振り返ってみると自分もその一部なのかもなと思ったり。
表現の問題ではあるけど、難しい部分でもある。
「怒髪天を衝く」までいかずともその感情をバネにこれから進んでいくために
長々と書いたけど、何が言いたかったかっていうと
自分にもそういう感情があって、それが今のモチベーションになっている。
そしてこの想いがあるからこそ簡単にはへこんだりしないんだろうなと。
そしてこれは自分の場合だけど少なからずみんなどこかにこんな感情を持っているんじゃないかな。
誰かを見返すために頑張りたい
自分が何者かになりたくてがむしゃらに頑張る
「怒」を乗り越えるために自分にできることを見つける
そんな熱い思いを持った人たちが私の周りにはいる。
これは業界も年齢も関係ない。
でもだからこそそういう人たちの熱が冷めて消えていってしまわないように、サポートも必要だし仲間も必要。
私もそう。1人では走り続けることができない。
感謝を忘れずに
ダラダラと最近感じていることを書き続けてしまってどうやってこれを閉めようか迷っているが、やはりこれに尽きると思う。
やっぱり1人では走り続けるのって無理だし、必ず誰かがいてくれる。
誰かじゃなくて何かかもしれないけどその何かを作った人が存在する。
何も当たり前なんてことはない。
日々の生活でこういうことって忘れがちだと思うけど私は感謝を口にすることを忘れないようにしている。
そしてこれからも忘れたくない。
最後に
感謝をすること、これを忘れず
そして「怒」という感情でなくても良いが自分の「根底にある感情」を忘れずにいろんなことにチャレンジをしたり、モチベーション高く持って仕事や活動に打ち込んでいくことが大切だなと思った。
という話でした。
ほぼ自分のブログというか頭の整理のために言語化した形ですがもし最後まで読んでくださった方がいるのであれば感謝いたします。
ありがとうございます。
こんな人ですがこれからもファンドレイザーとして、そして個人として何かに貢献していくことができるよう頑張っていきますので、
暖かく見守っていただけると嬉しいです。