みんなが海をもてたなら
この前お台場の近くを散歩している時、久しぶりに海を見た。
空いっぱいに晴れていたから、陽射しが水面の至るところに降り注いでいて、光の粒が海の上を滑っては柔らかい波に包まれて揺られて、を繰り返して、そうして徐々に溶けていった。美しかった。
私の身の回りは最近動きが少なくて、ゆるーく停滞してる感じだった。外に出れば春が広がっていて、もうあの刺すような2月の冷たさなんて、本当に遠いことみたいに思える。緊張したり歯を食いしばる必要はもうない代わりに、寄って立てるようなわかりやすい喫緊の問題もない。すべてが中途半端に間延びして、前日と今日の境が気を抜くと曖昧になる。
そういうのって気楽だけど、続けていくうちに何だか途方もないような気持ちになる事が増えて、とりあえず何かに繋がりそうな事には片っ端から飛びついて、手から擦り抜けていく時間を無駄にしないように必死になった。拠り所が欲しくて日々を豊かなものにしようとするのは状況が苦しい時によくやる手法だけど、そういうのとは全然違う。後者のような場合は神経が冴え渡っていて、だから自分がその時に選びとったものと、適切な距離を保てる。それらの姿がとてもクリアに目に映ってるから、どこにそれがあるのか、それがどんなものか、ちゃんと見る事ができる。
でも今はちょっと違くて、なんだか午後のおやつの食べ方みたいなやり方で生活を営んでる。遅くに起きて、集中なんて全然し切れないままペラペラ小説めくって、ピンときたところだけ上澄みをほんの少し舐めるみたいに救って理解したような気になって、そんなことしているうちに日が暮れて、明日の予定なんて何もないから夕方ごろから気心知れた人となんとなく会って、何するでもなくゆっくりとお喋りをする。
このままじゃいけないとはいつも漠然と思いながら暮らしていた。何も頑張っていない自分がいつも後ろめたくて、目の前の本や友だちに対しても、どこか上の空だった。自分のそばにあるものに注意深く目を向けることもないまま、かといって今いる場所から動こうともせず、変わらない現状に焦って、いつもその場を楽しめずにいた。
散歩をしていた時も、だいたい今まで書いたのと同じような日だった。穏やかで、とてもよく晴れていて、私には相変わらず何も心配するべき事がなかった。ぼーっと海を眺めながら、以前はよく会っていて、今はもう全然会っていない人の事や、近くにいるけれど普段はその存在をあまり意識したことのなかったような人の事なんかについて考えていた。思い返してみれば、どの人とも色々な話をしていくらかの経験を共有し、それなりにお互いの人生を楽しく行きつ戻りつしていたみたいだった。どれも素敵な思い出だけど、すっかり忘れてしまっていることばかりだった。今はこんなに晴れていて、太陽の方を向くと目が痛いくらいだけど、恐らくこんな今も、いずれは今引っ張り出してきたような思い出のごった煮と一緒に、今よりは暗い場所で、でもこの陽射しのぬくもりは少し残したままで、そこにあり続けるんだろうな、と思った。それは案外悪くない気がした。
こうしてあの日の事を回想している今も、書いているうちに思い返して、それを言葉にしている。書くまでは既に手から離れていたけれど、手繰り寄せれば必ず触れる事ができる、春の陽射しと水面と、すぐ側の道路を行き交う車の音。ここで拾った声が、日々の暮らしの中にある、午後の翳りや季節の変わり目の匂いなんかに溶け出して。そういう瞬間を、何度も生きられたらな、と思った。