伸びきったきしめん的考察
昨夜、映画「7月22日」を観た。2011年にノルウェーの首都オスロとウトヤ島で実際に起きたテロ事件を題材したものである。犯人のアンネシュ・ブレイビクは非常に急進的なキリスト教原理主義者であり、共犯者を持たずたった1人で、それもほんの1日の間に77人を殺害し、100人以上の負傷者を出した。犯行動機は近年のヨーロッパにおける多文化主義への反発、とりわけイスラム教に対する抵抗であった。
奇異でもなければ、信じ難い話でもなかった。何故なら、私は既にこれと似たような事例に出会った事があったからだ。すなわちそれは、大学の他学部の授業で履修した、現代イスラム世界に関する講義の事である。
その授業の主要なテーマは、簡単に言えばパフレヴィー朝崩壊後から今も尚続く、イランにおけるイスラーム法(シャリーア)による法統治体制であった。
当該システムにおいてはイスラム教が全てであり、人民は皆ムスリムであることが原則とされ、非ムスリムやその他性的マイノリティーといった人々に対しては一部の場合を除き極めて非寛容であることが多い。そもそも、「女性」と「男性」たちにとって彼らの宗教を信じていない者や教義から逸脱している人間は、彼らのコントロールの範疇を超えた存在なのだ。いったい誰がそんな訳のわからない人間と友好的に関わりたいと思うだろう?だから彼らは結託し、彼らの美しい均衡を取り戻すべく異物を排除した。とんかつの作り方や、女性的感覚を持った男性、ボジョレー・ヌーボーの定義や男性としての自意識を有した女性の事なんて、誰もコーランに書かなかったのだ。
奇異でもなければ信じ難い話でもなかったけど、この2つどちらに対しても全く同じの強い感想を抱いた。
「この不条理なまでの信仰心、どこから来るんだろう」と。
それまでの私にとって宗教は何だか遠いもので、だから実感として彼らがそこまでその部分にこだわる理由がよくわからなかった。でも期末レポートのために授業内容を整理しているうちに、彼らにとって宗教とは(この場合はイスラム教)ちょうど私が誰かがくれた言葉をお守りにしたり、それに縋ったりするように、欠くべからざる精神的支柱であるのだと理解することが出来た。その後から、心持ち彼らを近いものに感じられるようになったことは、私になかに鮮烈に焼き付いた。
そして2020年1月3日、アメリカ軍によりイランのイスラム革命防衛隊内の司令官であるガーゼム・ソレイマーニーと、イラクのカダイブ・ヒズボラの指導者ムハンディスが殺害された。この騒動を指導したのは、合衆国のトランプ大統領であった。
一口にイスラム教といってもその内部には幾多もの宗派が存在し、教義にもそれぞれのカラーがある。そのなかでも代表的なものが「シーア派」と「スンナ派」だ。
違いを簡単に説明すると、全ムスリムの割合において前者は少数派であり後者は圧倒多数派である点と、指導者決定方法の違いだ。シーア派においてはイスラム教の創始者ムハンマドの血縁である、アリーの子孫のみが後継者であるべきだという考えなのに対し、スンナ派の場合は、後継者はその時いる者同士による民主主義的な話し合いで決めていこうと定めており、「後継者が誰か」という点に非常に重きを置くシーア派に比べ、スンナ派は協議の際に支柱となる法や規範(コーラン)を大切にする。今回話題のイランは最大のシーア派(十二イマーム派)国家であり、殺害されたソレイマーニーの属していたイスラム革命防衛隊とは、元は現イラン・イスラーム共和国が誕生した1979年当時、前政権パフレヴィー朝の親王国軍に対抗するべく最高指導者、ホメイニ師によって発足した軍隊である。イラン政治では法学者の解釈するイスラーム法(シャリーア)が絶対的なものであることを前提とされており、十二イマーム派の教義では法学者の最高位の人物(最高指導者)こそがムハンマドの後継者とされる。従って、亡くなったソレイマーニー氏はシーア派の人々が最も大切にする「最高指導者(つまり後継者)」に仕え、シャリーアによって統制された世界を構築するべく、時には殺人も顧みず国力として動いていた人なのだ。彼の指導により、これまで多くの米軍が死に追いやられたことも、揺るぎない事実だ。もう一人の犠牲者であるカダイブ・ヒズボラはイラクの人だが、親イランであった。
もちろん、事態は私が書いたような「宗教的に思想が過激な人物が、その信条を貫くために行動した結果、その偏ったやり方が相手を刺激し、殺された」というような単純な構造ではないと思う。恐らく複雑に込み入った政治的思惑や金や、その他雑多な事情があるのだろうけど先述したとおり、私個人としては宗教の名の下に人が人を傷つける事や、その不条理なまでの信仰心などに関心があったから、具体的な知識を欠いたまま、少なくとも事件を知ってすぐはそのような見方が先行してしまった。
ニュースを見てすぐに、この事件は最近私が触れたいかなる問題とも性質を異にしているとただ、感じた。それは私の神経をざわつかせる何かがあった。パッと見た感じはよく知っているような宗教関係らしき事件なのだけど、逃げられない形で今にも自分に迫ってくるようなリアルさがあった。もしかしたらそれは、専門家による見解と一緒に流れてくる「第3次世界大戦」という不穏な言葉の響きから無意識に集団的自衛権の存在を想起し、次いでわたしの身近な人を含んだ(自分がそこにいる可能性は考えていなかった。救いようのない甘ったれ)日本の兵隊が中東に派兵され、そこであえなく爆撃によって命を落とすというような短絡的で、非常に自分の範囲だけに特化した想像のためだったのかもしれない。いずれにせよ、他人事ではない気がした。今持ち上がっている事件に対して自分ができる限り向き合いたいし、そのために情報が欲しい、と初めて痛感した。
しかし全く恥ずかしいことに、一体何を、誰を頼ればいいのかわからなかった。
何でこんなことが起きているんだろう、と思った。これまでも日々主要なニュースは人並みに追っていると自覚していたし、なにより情報に不自由していると感じたことはなかったからだ。それなのに、いざ物事を知りたいと思ってもその適切な手段を知らなかった。何か情報を発信してくれていそうな機関と言えば思いついたのはテレビや新聞だったけれど、そもそもそれぞれの局や新聞社の特質もわからず、また理解しようと努めてきたこともなかった事に気がついただけだった。周りの人がメディアはもう駄目だというからああそうなのかな、くらいに思っていた。繰り返すけど、これまで情報に不自由していると自覚したことはなかった。恐らくそれは、Twitterが原因であると思う。
Twitterの世界は玉石混交だ。その道のエキスパートが事実をタイムリーに呟いているのを目にすることもあるけれど、なだれ込んでくるものの大半は新聞でいう校閲のようなプロフェッショナルによる調整がなされていない(新聞やニュースだって立派に歪められているけれど、もっと基本的なレベルで)個人の主観と憶測が入り交じった発展途上な情報だ。さらに悪いことには、後者のような文章はどうしても隙が多い分解釈の幅が広がるため、無責任で真偽の曖昧な意見や感想の掃きだめのような様相を呈することも少なくない。こうして文字に起こせばいかにもそれは絶望的で、まさか自分はそんな馬鹿な真似はしないよ、と斜に構えたくなるかも知れないけれど、実にこんなことばかり起きているのだ。責任のないもの同士がふわふわと議論し合っている分には制約がないから、結果その心地よさゆえに、なんとなくみんなで色んなものを受け流し、気が向けば言葉の先だけ掠め取って、好きな様に意見するようになった。そのような騒音のボリュームが上がれば上がるほど、本来主題にしなければならない問題点や、耳を傾けるべき意見が埋もれてしまい、それらを一瞬でも目にし、興味を持つきっかけをとうとう失ったまま相変わらず同じ場所に留まるしかなくなる。そして自分と似たような者同士ばかりが固まることとなり、たくさんの情報を目にしているように見えて、実はその内容はずっと変化がない。
でも私は、今いる場所から少しでも進んで、自分の周りで起きていることくらい自分の目で見て把握しておきたい。そのための手段らしいものとして、SNSは大衆受けはするから、普及率という点で魅力的だけれど全面的には信用できないし、ぼんやり思い当たる岩波や中央公論から出る新書は、それらが出版されるのをいちいち指をくわえながら待っていてはリアルタイムで情報を得るには不便すぎる。それにこの手の本は、普段から活字と接する機会がある人ならともかく、その文体の硬質さや頻発する専門用語のために万人が常用できるようなものとはちょっと思えない。新聞なんかもそういうところはあるように思える。そして現代の人の多くはテレビを観ない。
一番手っ取り早い情報網であるところのSNSもだめ、かといって正確な情報が記されてあるにしてもあまりに堅いものであってはなかなか読みにくい。ニュースもまともに観ない。何だかずいぶんわがままみたいだけど、とにかくそうなのだ。
私たちに理想的な情報とは、語義の杓子定規的な正確さや専門的に込み入った知識に拘泥したものでもなく、また伝える努力が十分になされていないために、解釈や結論が読む者にかなりの程度委ねられるようなものでもない。今必要なのは、実際起こっている事柄をもう少しわかりやすいレベルに引き下げて報じることの出来る人なのだ。具体的に言うと、どんな物事にも必ず付随する、それが起こるまでのドラマを実際に起きた出来事と私たちとの間にそっと挟み、解釈の手助けとしてくれると非常に良い。なぜなら政治にしろ経済にしろ、何か事態が持ち上がる際には必ず背景にはたくさんの人間が関係しており、そこには様々な思惑や歴史が隠されているからだ。自国の利益を得るための経済制裁や行き過ぎた信仰心が昂じた結果のテロ、これらすべては結局自分が縋っているものを意地でも守りたい、という1人間の心の表れだし、そういうことなら私たちにも覚えがあると思う。どうしても失いたくないものの為に、どんな手段を使ってでも、そして例えそれが間違っているとわかっていても必死に努力したこと、ありますよね。
このように、少しでも私たちに身近な感覚に寄り添うような内容を含んでいるのといないのでは、恐らくニュースに対する興味の濃度がグッと変わってくると思う。ちょうど、世界史の教科書で目にしたことがある絵画と実際に美術館で向き合ったらそれなりに感慨深いのと同じだ。そのようにしてニュースを自分に近いように感じるような経験を積むことで自分を少しずつ馴らしていき、徐々に自分なりの身の回りの出来事を正しく理解するためのストラテジーを見つけていけば良い。
余談だけど、私が今回のイランとアメリカの騒動を理解する際に参考にしたのは朝日GLOBE+というサイトだった。理由は、ここに鈴木一人氏が寄稿して下さっている記事が、要点が平明に整理されていたのに加え、文体や語彙に圧迫感がなく、所々に殺されたソレイマーニー氏に対するイラン国民の気持ちなど箸休め的なエピソードが散りばめられていて、読みやすかったからだ。しかし一番心惹かれたのは、鈴木氏がつけた「国際ニュースの補助線」という副題であった。まさに私が求めているものだった。こういう記事が、これからもっと増えて、もっと多くの人が知ってくれれば、と心から思う。 以上、伸びきったきしめんみたいに暇だったお正月休みの間の思考の総決算。
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