『大事なもの』(小説)
琉花は慎重な子どもだった。
遠足の前は、持ち物や、朝起きる時間などを詳細に記載した、自作のしおりを欠かすことなく用意していた。
琉花は頭のいい子どもでもあった。
寝坊をした場合のAプラン、みそ汁が熱すぎた場合のBプラン、お父さんのトイレが長すぎた場合のCプランなど、不測の事態に備えて最低三つは計画を練っていた。
琉花には理恵という親友がいた。
琉花は彼女に何でも打ち明けていた。
少し恥ずかしい話も、少しだけ憧れている男の子のことも、クラスの女子のちょっとした悪口も。
中学生になったある日、クラスの女子に呼び出された。
琉花が自分の悪口を言ったということで。
ついで憧れの男の子が、琉花を見て「うげー」と言った。
そして琉花の恥ずかしい話が、黒板に書かれていた。
琉花は用心深い少女だった。
周りに人がいるところでは、自分の話をしなかった。
そして琉花は、自分の話は大切な親友にしか話さない少女だった。
何もないポツンとした無人駅。
都心まで電車で二時間半。電車の本数は一時間に一本。
地元の人もほとんど利用しないこの駅は、今日に限って人だかりができている。
琉花は人が少しでも少ない場所を選んで、一人電車を待っていた。
遠くから賑やかな声援が聞こえた。
「ついてない」
琉花は地元からバスで一時間かかる、小さな会計事務所で働いている。
勤め始めてもう二年。休日出勤はたびたびあるが、今日ほど休日出勤を呪わしく思ったことはない。
「頑張れー」
また声が聞こえて、琉花はため息をついた。
今日はマラソン大会で、道路はすべて通行止めだ。
この日だけは休日出勤を不可にしておいたのに、出勤命令が出てしまった。
「理恵とは何も話したくない」
琉花がそう言ったのも、この駅だった。
二人で忍び込んで、暗くなるまで話をしていた。
毎日来ていた場所、二度と来たくないと思った場所。
目の前を女が通り過ぎた。
マラソンの応援には似つかわしくない、派手な服を着た女だった。
きっと通行止めに巻き込まれた仲間だろう。
琉花はたいして興味も持たずにその姿を見送った。
ふと、足元になにかが落ちていることに気が付いた。
「あの、すみません」
呼び止めて、足元のものを拾い、息をのむ。
それは、ところどころ角がはがれている、変色した、キャラクターもののパスケースだった。
「あ、すみません」
派手な服の女が気づいて慌てて駆けてくる。
そして、琉花を見て目を見開いた。
琉花も女から目が離せなかった。
「あの、ありがとうございます、その、これ、すごく大事なもので」
女がしどろもどろになって言葉を探しているのを、琉花はじっと見つめていた。
「その、えっと」
「何これ、汚い」
女の声を乱暴に遮った。
「大事なものを乱暴に扱ってすぐに壊す」
女の顔がみるみる赤くなる。こういうところは、大人になっても変わらない。
「私を見習った方がいいよ」
琉花は少し年季が入っただけの、理恵と同じパスケースを取り出して、彼女の前でひらひらと振った。
琉花はものを大切にする女性だった。
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