あのときの気持ちを思い出せないのは本当に飽きスイッチのせいなのか
2020年が始まってから1ヶ月も経ってしまった。
正月に「2019年の振り返りと2020年の抱負をnoteにまとめます!」と豪語したあの時の私はバツの悪い顔をして日々の忙しさに隠れてしまったようだ。
インターネットという、他者の思想や世の中のムーヴメント、多岐にわたる情報をたやすく得ることのできる便利ツールのおかげで、有言実行が信頼を得るこの時代に何かを宣言することのハードルの高さ、そしてその価値を認識せざるを得ない。
と同時に猛烈な反省をする羽目になっている。
私の「飽きのスイッチ」の早さには私もほとほと困り果てている。
2019年の振り返りについては、対して長文を考えるわけでもないのに前半を書き終えると同時に「飽きのスイッチ」が入ってしまった。
普段滅多にnoteを更新しない渋谷の鬼神が、突然どうしたのか、私にもよくわからない。
このnoteを書き始めたきっかけは、ずいぶん昔に「そうだ、小説を書こう」と思い立って書き始めたものが宙ぶらりんになっていることをふと思い出したからだ。
物語にも色々あるが、私のそれはほとんど、自分の体験と望まず得ることとなった心の憤り、そしてアンコントローラブルに変わってしまった人生観を、物語という言い訳に乗せてネガティブに、自己愛的に、幼稚に書き綴ったものだった。
そのときも私はきっと「飽きのスイッチ」が入ってしまったんだろう。
特定の人との関わり、仕事、指針としている考え方、住むところ、話す内容…スイッチはふとしたときにやってくる。
そして私はそれを拒むことができない。
社会的に言えばかなりダメとされる方ではあるかもしれないし、関わる人間に不安を感じさせてしまう致命的な短所でもある。
しかしその反面、何かに熱中している間や大きな課題に面したときののめり込み方は常軌を逸しているし周りの景色や音にモヤがかかってしまうほどだ。そうだった。
今も変わらず課題解決という尊い行為を愛しているし、熱い気持ちは剥がそうとしても剥がれないほどに私に根を張っている。
でもなぜだろう。
あの物語を書いていたときの気持ちを、今は思い出せない。