翔んで兵庫について考えてみる
ぼくは兵庫県出身だが、
#翔んで兵庫 というハッシュタグが一時期、Twitterで流行した。
抽象的なものを具体的に表現したり、分かりにくいことを自分なりのレベルではあるが、考察、思案することが好きな方である。
このことから何を感じたか?書いてみようと思う。
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1、人生は思い込みで出来ている
記憶というのはあいまいなものである。
脳内の短期記憶、長期記憶、大脳皮質のどこそこに記憶されるとか生物的にも色々と言われるものである。
そのあたりはwiki先生にお任せするとする。
例えば、目をつぶって、日本地図を思い浮かべてみよう。
どれだけ正確に思い出せただろうか。ぼく自身、再現性はほぼ無い。
再現するために、人間は古来から紙に記録したり、文章にしたり、電子データにしたりして、事実を残してきた。
不思議に思うのが、、
その事実に自分の記憶や感覚、感情と答え合わせをしていることだ。
(by frame-illust.com)
自分のことを信じろ、と言いながら、自分自身が個性に従って、感じたこと、思ったことより
外にある事実(両親の言ったこと、ニュースなど)を信じることで、
結局のところ、自分が本来感じたことや思ったことにフタをして封殺していることにならないだろうか。
コーヒーはこげ茶が事実としても、自分のなかにある感覚としては、オレンジ色だったとしよう。
常識的にはおかしいことかもしれないが、
その人の中のコーヒー=オレンジ色ならば、オレンジ色が真実なのである。
自分を信じることってつまるところ、そういうことでは無いだろうか。
どうも、受験を始めとする学校教育、社会人になってからの仕事については、
なりたくもない外の事実に、自分を押し殺してなろうとするから、ストレスになるのではないだろうか?
極論だが、目に見えること、耳で聞こえること、触れることなど5感で感じる世界にあまりにも、飼い慣らさせている可能性があるのだ。
「私がそのように感じたのだから、それが正解」というのが、一番ストレスフリーであるが、
そういう生き方では、社会、国家、世界は成り立たないのだ。
何も疑問を持たずに生きるよりも、なぜ?を人生に取り入れることによって、色鮮やかになるかもしれないし、ならないかもしれない。
じぶんの感じた世界と、じぶんの外側の世界は必ずしも一致しないと思ったので、記事を書いてみた。
記憶があいまいである限り、このような矛盾をかかえている人もいるのではないだろうか。
ひょっとすると、ぼくだけそう思っているかもしれないが、それはそれで良いと思う。
「そうはいっても、理想論だけでは生きていけない」という考え方も当然だと思うが、それすら飼い慣らしではないだろうか?
無意識に生きると思考停止の人生を歩むことになる。
じぶんの内側で感じることと、外側の世界での乖離が大きければ、大きいほど、じぶんなりに疑問が出てくると思うのだ。
なぜじぶんだけ人と違う考え方なんだろう?
おかしいのかな?などなど…
そこに何か人生の課題を突破するヒントがあるような気がして仕方ないのだ。
わからないなりにもがくのだ。
人生がその人その人の思い込みで出来ており、あいまいであることを受け入れることができると、
クイズ番組やテストで満点を目指すような生き方には魅力を感じなくなるだろうと思う。
どれだけ脳みそを鍛えても、せいぜい数%しか使用しないのだ。そこに人生をかけるより、
ぼくはなぜか、意識とか見えない価値観に興味を持つようになった。
なぜなら、意識は無限の可能性を秘めているから。
意識したら、光で10万光年かかる銀河系も意識できる。DNA構造も意識できる。
大きいとか小さいとか関係なく、果てしなく自由であるのだ。
意識は、人間の脳という小さい領域を超えているのではないだろうか?
むしろ、自由な意識を肉体という狭いなかに閉じ込めておくことこそ、不自由ではないだろうか?
だから、上記の画像、翔んで兵庫のように、「あいまいなイメージ」「発想力」「想像力」でも十分に、面白さが伝わると思う。
明石市=タコ、明石海峡大橋
淡路島=ホテルニュー淡路、玉ねぎ…
など、完璧に記憶する必要もないし、相当地理に興味ない限り、無理と思う。
あいまいを否定するのではなく、それはそれで良いし、違うからこそ面白いかもしれない。
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2、詰め込み教育の限界
少し1、の内容にかぶるが、翔んで埼玉がヒットしたように、何も観光名所が無いと思いこみがあっても、地元の人だけ知っているスポットもあるのである。
県外の人から見ると、埼玉の一部分を見て、田舎だとか勝手なイメージを植え付けている。
これって、対人についてもいえないだろうか?
何も調べずに、事実の確認をせずに、安倍首相はこういう人だとか、政治家はこうだとか、
大多数の人がこう言ってるから、私もこうだと謎の決めつけ、謎のじぶんフィルターを貼りつけて、相手を見ているに過ぎない。
なぜなら、365日、24時間、相手とべったりくっついていないのである。
憶測と妄想で〜だろう、で会話したり、断定している事は日常では当たり前ではないだろうか?
憶測と妄想が悪いわけではない。
未来予測やコミュニケーションには必要だし、無いと困ることもあるだろう。
確実にわかることは、じぶんの感情と感覚である。
安倍首相を見て、「わたしはどう思ったか?」のみが私にとっての真実である。
怒りなら、怒りでよし。
蔑みなら、蔑みでよし。
嫉妬なら、嫉妬でよし。
このご時世、なかなかポジティブに捉えられないと思うが、
どんな感情であっても、そのように感じたのだ。
じぶんの外側にある事実を保障できないことに、時間とパワーをかける時代も終わるかもしれない。
学校教育とか塾とかお受験とか、いい大学に行くという価値観も根底から崩れるかもしれない。
どれだけ、1+1=2をマスターしても、脳細胞のシナプスの減少とともに忘れるのだ。詰め込みにも限界があるし、
ぼくなんか、授業で過去に何を習ったかはほぼ覚えていない笑
それよりも、個性とか芸術とか、じぶんらしさが大いに発揮される世の中であって欲しいと思う。
なぜなら、各人がイキイキと輝いている姿を見るのは、心を打つことだし、嬉しいことだ。
誰しも、幼少期から感動したこと、想い入れの強いものはあるかもしれない。
翔んで兵庫のように、イメージ力、想像力が、生活でふんだんに生かされる世の中になって欲しいと願う1人だ。
もう、嫌いなことのために生きる人生から解放されることを願っているし、
解放された分、思考に余裕とスキマが出来てくると思う。
どんどん、いままでの価値観が破壊される分、
スキマがどんどん出来てくる。
コロナというピンチに、人間改革というチャンスがなされるかもしれない。短期間に変化出来るかもしれない。
こんな酔狂なことを考えているのである。
何人こんなことを考えているかはわからない。
だって、人間の潜在能力には凄まじいものがあるから!
人間の可能性を信じてみたいのだ。
変人にお付き合いくださり、ありがとうございます😊