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バンコクで感じた仏教
日常にある宗教
バンコクの街には祠が多く見られる。ビルの屋上にも、コインランドリーの脇にも、ウイークエンドマーケットの中にもある。人々は宗教とともに暮らしているのであろうか。
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仏教徒の国
タイといえば仏教である。わが国も仏教徒が多いが、その比ではない。タイでは90-95%が仏教徒なのだそうだ。約3万の仏教寺院があり、約40万の僧侶がいるそうだ。
タイの仏教は上座部仏教だ。わが国の大乗仏教とは異なる。大乗仏教では自分で修行しなくても、修行をしたひとに教えを説いてもらえば覚りを開くことができるとされているが、上座部仏教では自分で修行をして覚りを開くことを目指しているそうだ。すなわち、大乗仏教では誰でも成仏できるが、上座部仏教では修行して覚りを開いた者だけが救われる。
キンキラ寺院
わが国の仏教との違いは仏教寺院にも表れる。金色、ピカピカなのがタイの仏教寺院。わが国のお寺の落ち着き、緊張感、そして静けさは微塵もない。
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この世に生きることは苦しみであるが、その原因は執着心。執着心をなくすには出家して修行。そのような教えを実践する場がキンキラキンなのである。彼らのセンスは日本人とは異なることが実感できる。永平寺をみよ。ストイックに世間と決別して修行。開いた覚りにも差があるのではないかと考えてしまう。
仏教の目指すところ
仏教は紀元前450年頃インドで誕生した。王族の王子であったゴータマ・シッダールタが、老い、病気、死といった人を苦しめるものからの解放の答えを求め、出家し、瞑想修業をすることから始まっている。なかなか答えが見つからなかったが、菩提樹のしたで瞑想を行い、ついに覚りを開く。なんだかドラマのようだ。
人生は思い通りにならない、それが一切皆苦。思い通りにならないので苦しいが、その原因は、諸行無常と諸法無我、すなわち、すべては移り変わり、すべては繋がりのなかで変化しているからだ。これが自覚できれば、一喜一憂することなく、心が安定した状態になり、苦しみから解放される。これを覚り、涅槃寂静という。そんなの当たり前だ、と思う筆者のような人間には全く意味のないものである。
しかしながら、時折、瞑想にふけってみるの悪くない。もっともすぐに寝落ちて瞑想する間もないと思うが。