縛って解いて気付いた叫び
私はずっと親に縛られて、いや、寧ろ自分自身でわざとがんじがらめに縛って「親」に「固執」していたのかもしれない。それは思春期特有の自己承認欲求、無償の愛と言えば響きは良いがただ単に愛情の枯渇。
振り返れば、自身の切羽詰まった声が聞こえる。
谷底の奥深くから、「もっと、もっと、もっと…」と耳の粘膜にへばりつくような陰湿な叫び。絶望と希望を行ったり来たりする不安定なその立ち位置で絞り出した必死の叫びは儚くも散った。もう叫びもため息も出ないほどに現実に打ちのめされた。
思い出した今、それこそ鳥肌が立つくらいに。
それは心底正直で、心底滑稽だった。そして何より、そんなことはどうだっていい、端からどう見えようがどう思われようが形振り構っていられないほど必死であった思春期の私に、いま、私が私自身に求めていた「愛」を自給自足して満たしていることを教えてあげたい。
親とはいえ他人、まして「毒親」というカテゴリーに類する人からはいつまで経っても貰えないのだ。不毛。なんと不毛な一人芝居だったのだろう。
生まれてから今までずっとずっと一人芝居を続けた、形だけの家族は散り散り消え去り、悲しきマリオネットの糸はようやく切れたのだ。
傷だらけの私。もう、苦しまなくていいんだよ。とただただあの頃の無垢で無知でボロボロで、幼き魂のままの私を抱きしめてあげたい。
「頑張ったね」「愛してるよ」「大切だよ」
そして「あなたは愛されるべき人間だ」と。
私は昨今では所謂メンヘラと呼ばれる人種だ。
中学生から父が違法販売や乱用していた睡眠薬や安定剤にずっぽりハマっていってしまった。その頃は父子家庭で父親は山口組弘道会の名古屋に本部を構える組に所属していた。
最初のきっかけの出来事は、「眠れない、」と父の部屋に入った時だった。その時には覚せい剤などが部屋に隠されていたから、きっとさっさと寝かせたかったのだと思う。いつものパターンだ。
父はイライラすると手っ取り早いからと安いワンカップを飲み、眠剤を何個も入れていく。今も内縁の彼女が「もうあんた眠剤飲んだじゃん!」と言っても「そうだっけか?」なんてとぼけてラリって覚えておらずガブガブ飲んでいく。
そして仕事の自営が上手く行かなかったり、金回りが悪くなってストレスが最高潮に達したり、バリバリ働かなくてはならない時、セックスしたい時に覚せい剤を入れる。
私が、「眠れない、」と言って部屋に入った時の目つきは今でも忘れない。濁っているようで虚ろでありながらどこか凝視されているのではないかという鋭さも持ち合わせた、あの特有の眼を。キメてんなぁ、そう思ってもそれが日常だからなんとも思わなかった。
部屋に入った私を見てはすぐさまスッとベッドサイドに手をやる父から「ならこれやるよ、」と渡されたのは赤と緑が毒々しく見えたデパス1ミリのシート。
「一粒だけだぞ。それ以上は飲むなよ。」なんて言っていたが、じゃあいつもがぶ飲みしているお前はなんなんだ?と思った記憶が生々しく残っている。
そしてその後、主食のコンビニ弁当とカップ麺のゴミまみれの自室で、コーラと一緒に初めての精神薬、正式には精神安定剤というものを身体に入れたのだった。
当時、12歳。あまりにも無知で幼く、そこに疑いや恐怖などは一切無かった。
いつも通り古い一軒家、二階は〇〇荘、と若くして旦那を亡くした曾祖母の食い扶持だったその角部屋でコンポから流れる爆音の歌詞をひとつひとつ拾うように聞いていく。その歌詞の言葉達が唯一の慰めで本心通ずる仲間だった。
そのうち、何故かその言葉達の意味が遠くなっていく。物理的に、ではない。音量は変わらないのだが、感覚として「遠く」に感じた。
ぼおっとしてきて、ふわふわした夢の中みたいな世界に私は存在していた。いつの間に夢の中へ、と思ったが、立ち上がりベッドへ向かうと転んで痛かったことから、それは夢ではなく現実なのだと認識する。
その瞬間は意外にも冷静で、酒より来るなぁ。ラリるってこの事を言うのか、とやけに俯瞰していた。そしてそんな冷静な自分と、上手く動かず歩けない身体とのアンバランスさに妙に、更に言うならば異常に惹かれている私がいたのだった。
そこからは地獄の始まり、沼へズブズブ、それは見事に転げ落ちていった。かろうじて母方祖母の援助で通っていた進学塾にも行かずに、ただひたすら男と薬に逃げていった。
当時の成績は偏差値県内一番の公立高校射程圏内、二番目の高校にはほぼ入れた一番の特進クラスだったのに、男や薬や夜遊びに金。そっちの方が刺激的で、未来の事なんて考えられないほどに遊び尽くし、偽造免許でキャバクラで働いたり夜通し遊んだ。
いくら勉強しても「俺の子だから当たり前」「出来ない方がおかしい」と一度も勉学も絵の県大賞も作文の賞文集化も体育やリレーの選手ですら褒められたことなどなかった私に、男や金は簡単に見せかけのまがい物でも「愛」をくれた。
それが継続するかしないかなんて関係なかった。まがい物の愛を取っては捨て、取っては捨て、そんなことで満たされるはずがないのにそれ以外に「愛を受け取る方法」がなかった私の唯一の救いはそれしかなかった。
もしかしたらこの虚無を埋めてくれる、そんな僅か1パーセントの希望が打ち砕かれるたびに大量に薬を飲む。
そしてまたあっけらかんと、愛を探す。全てまがい物、分かりながら手探りで「なんちゃって愛情」を身体と心で受け止めては憎み、焦がれ、葛藤し、乞うた。
男で埋められない日は友達で。夜な夜な県営団地の前でビックスクーターや単車をふかす先輩と同級生と他愛のない話、冬はコンビニの前でおでんを食べながら警官と喧嘩、他校の人達との喧嘩、タバコ臭いカラオケボックスに飲み方を知らない酒の嵐。
父は地域では有名人だったから、その一族として学校の番長格の先輩からもただ一人だけ「さん」付けで呼ばれる思春期の優越感と嫌悪感の狭間が何とも言い難い「青春」だった。それが思春期特有だと自覚はしていた。
ただ根っから社交的な訳ではないから、時折しばらく「休養期間」と称して部屋に閉じこもり薬と本と心理学と音楽だけで過ごして、ガラケーに掛かってくる友人の鬼電もフルシカトで自分の世界に潜り込んで悦に浸って。
真面目にある程度進学塾へ行ってた生活が一変した。
今思えば、たった一錠、今ではラムネ同様の何も変わらないその一粒。
それでセックスも楽しくなるし、自分の世界が本当の意味で自分だけのものになる。虚無感を音楽と共有して、自身の感情の仕組みやルーツを知るためにひたすら心理学を読み漁り、と同時にあまりにも苦しい程の希死念慮に憑りつかれたら薬をしこたま飲んで現実逃避に本を読む。もしくは寝逃げ。
書いていてなんだかげんなりしてきた。
なんだこの中学生。可愛げもクソもねぇな。
まぁそんなこんなで道を逸れた私だが、今は造形はどうであれ自分自身をそこそこ好きで美しくて愛おしく、大切にしたいと思う。
そう変化していった過程は次か機会があれば、自身の振り返りのアウトプット消化としてつらつら書いていきたい。
ぶっちゃけもう眠い。マイペースは相変わらず。ただ手に入れた健康的な生活は大事にしたいので、起承転結の全くない落書き。
ただそれこそが何よりのカウンセリングや認知療法だと信じ、そして自分の愛おしさを再確認するための作業として綴っていきたい。
寝る。