みぞれ・11

名前が同じだ。あの日彼女の携帯電話に表示された名前。久しぶりに面と向かって会うからか再度渡された名刺を眺めながら先ほどの様子を思い出す。大久保さんではなく彼女を見ているように見えた。
いつもの赤らんだ顔ではなく、二人で笑いながら歩いていた。今日は見た事のないベージュの靴を履いていた。この男が彼女の恋人なのだろうか。少し動揺しているようで煙草に火をつけるのも忘れていた。

少し前までの彼女は何かから逃げる為だったのか最近と比べて酒をよく飲んでいた。たまに戻してしまうほどに飲んで、しばらくするとまたぼんやりと飲み始める様子を見ていると酒も進まなかった。だからといって部屋に招かないとまた公園で飲み始めてしまうのではと心配で放っておけなかったから、買っておく酒の量を少なくして、彼女のぼんやりとした話に付き合う事くらいしか出来ることはなかった。彼女が変化を求めている様子はなかったし、安心しきったように酒を飲み子供のように笑いながら話す彼女を、現実に引き戻すのは酷に思えた。正しいかどうかは別として。

大久保さんと歩く彼女を見て少し安心した。普通に生活できている様に見えたから。

間違えて呼んだとき以来、一度も男の名前を聞くことは無かった。たまに着信があったようだがそれに彼女が応えることはなく、しばらくするとその着信も回数が減りやがてなくなった。

打ち合わせは滞りなく進んだ。営業らしく軽口も叩くが、少し背伸びをしているのか格好つけたがるところがある。普通で良いのになぁと思うが30かそこらの男にとっては見栄も大切なのであろう、分からなくはない。飾らない山根を思い出してあいつの方が好きだなと思う。

「前田さん、俳優さんみたいなお顔されてますよね。」

驚いたような顔の後、嬉しそうに笑って照れている。笑うと子供らしさが顔を出す。もう打ち合わせはあらかた終わっている。雑談をして解散していいだろう。

「そんなことないですよ!東城さんみたいな方に言われると恥ずかしいです、今日のスーツも格好いいですよね」

褒められることが好きなのだろう、明らかに饒舌になり始める。この調子なら彼女の話を聞けるだろうか。

「恋人はいらっしゃるんですか?」

「普通のOLですよ、何の変哲もない事務員です」

「へぇ、美人さんなんだろうなぁ」

「いやぁ、至って普通ですよ。こんな事言ったら怒られますけど、前の彼女の方が顔はタイプでしたね」

写真、とこちらが言う前に携帯を触り始める。これが今の彼女ですと、ツーショットの写真を見せられ続けて違う女性が一人で笑顔で写っている写真を表示させ東城さんはどっちが好きなタイプですか、と楽しそうに話している。

他人との距離を無意識的に縮められる人間なのだろう。そういう人にはそうで無い人間の気持ちはくみ取りづらい。何気ない言葉や行動に傷付けられているのはお互い様だが、考えすぎる方が辛い思いをする事が多い。

会話の最中に撮影されたのか、写真の中の彼女は自然に楽しそうに笑っている。2人で旅行でもしたのだろう。何も知らないと思っていたが案外そうではないのかも知れない。酔っ払っていても、彼氏とデートをしていても、彼女の笑顔は変わらない。

「どちらも素敵な方ですけど、こちらの方は笑顔が素敵ですね」

目の前の男は、あぁと声を上げる。

「そうなんですよ、よく笑う良い子だったんですけどね。お恥ずかしいことに、何を考えてるのか全然分からなくて参っちゃったんですよね」

「そうなんですか」

「聞いても答えてくれないし、彼女はあんまり甘えたりしない方だったのでまぁ僕のことは要らないんだろうなぁと別れちゃいました」

簡単な相づちだけで、べらべらとよく喋る。

「…まぁ、自分の気持ちを明確に言葉に出来る人ばかりじゃないですからね」

自分で思ったよりも冷たい口調になっていた。しまったな、でも良い。本心だ。目の前の男はびっくりしたように言葉に詰まっている。

「女性だと多いですよね。自分が何に怒ってるか分からない、とか」

続ける言葉は出来るだけ穏やかに心がけた。これは仕事だ。偶然、彼女との接点があっただけだ。目の前の男は安心したようにまた喋り始め、今度はこちらの恋愛事情を聞き出そうと質問をしてきている。さっさと切り上げよう。


この男は恋人だったから、彼女と当然のようにセックスしたのだろう。甘えてくれないし何を考えているか分からない、そう思われながらあの子は抱かれていたのだ。

あんなにも人を求めている彼女を。ひとりでは居られずによく知らない男の部屋に上がってしまう彼女を。酒に溺れたいだけならひとりだって良いはずなのだから、そうではないんだろう。そんなあの子の側面にこの男は気付かずに手放した。彼女が求めているものを差し出せる立場にいることにさえ気付きもしなかったのだ。

珍しくいらついていた。

早く帰りたい。
彼女とソファでビールを飲みたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?