みぞれ・16
後は明日の引き継ぎをすれば今日の仕事は終わりだ。パソコンを開き緊急の連絡が無いかチェックする。残業にはなりそうにない。
朝から迷ってもうこんな時間だ。鍵が無くて困っているかも知れない。分かってはいてもなかなか気が進まない。ポストに入れておこうかと思ったが、オートロックの外でしかも部屋の番号が分からなかった。何度も行っているのにおかしな話だ。部屋のものだけでは無いようで4つ鍵がついている。尚更、電話をしなくては。でも部屋を出るとき鍵は掛かっていたからあの部屋のものは持っているんだ、今日でなくてもいいのではないか。でも。
鞄を持ってデスクを離れる。
「お疲れ様です、お先に失礼します」
まだ仕事をしている同僚に一声掛けて足早に出る。どこで掛けよう、どんな風に喋れば。彼は何を望んでいるんだろう。いや、考えすぎだ。寝ていたから鍵を置いていっただけの話だ。分かるはずも無いことを考えても仕方が無いけれど彼の頭の中ばかりが気になる。それによっては対応を変えるつもりなのだろうか。
いつもそうだ。合わせる事ばかり考えて、自分の言いたい事ややりたい事はあまり浮かばない。相手のしたいようにしたいのだ。人間関係を築く上でそれが良い方向に作用しないことはわかっているが、考えずにはいられない。それらを一切考えずにいられるのはお酒にまみれて彼といるときだけだから、あの時間が好きなのだ。
結局自分のことばかりだ、わたしは。彼が何を望んで部屋に招いているかなんて、考えたことも無いと気付いて自分でも驚く。セックスをしたがらないから、これで良いのだと思い込んでいた。もしかしたら、違うのかも知れない。わたしはあの時間を。彼は、なにを。
うっすらと浮かんだ考えが形をなす前に振り払う。怖くなってしまったら、何も出来なくなる。
ひとまず電話をしなくては。自分の性格をこんなに恨めしく思ったことは無いかも知れない。
彼の名刺を見つめる。彼の名前を、初めて見た。
*
もしも駄目なら、しばらく不便だな。いや、彼女の会社の番号は知っている。掛ければ良いのだ。
分かってはいるが、したくない。
彼女からのアクションが欲しい。良いものでもそうで無くても良い。ただ、認識して欲しい。子供染みている。欲しいおもちゃを買って貰えず駄々をこねている子供の心情が今ならよくわかる気がする。
彼女の望みを叶えたいだけだ。彼女が笑っていられるなら、それだけで良いのに。したいようにさせてきたつもりだった。飲んで欲しくなくても酒が飲みたいのなら飲ませるし、聞きたくても聞いて欲しくないのなら何も聞かない。それで彼女は本当に笑ってくれているのだろうか。
部屋で無防備に眠りうわごとのようにすきなものを聞いてきた彼女を見て、自分の言葉を思い出した。自分の感じていることを言葉に出来る人ばかりじゃ無い。彼女がそうだと俺は知っていたのだ。だから、鍵を置いていった。そこから、素面の彼女は自分のことを考えるのではないかと。何でも良いし何かは分からないが彼女に何かに気付いて欲しい。その先に俺がいなかったとしても仕方の無いことだ。
やる事は山ほどある。今だってしっかり机に張り付いて真面目に働いている。それでも煙がかった気持ちが晴れることは無い。溜息をついて時計に目をやると19時前だ。従業員達はちらほら帰り始めている。
「失礼します。お認めお願いします」
「なんだよ山ちゃん、残業なんて珍しいな」
無愛想な男が入ってきた。表情を変えずにこちらを睨んでくる。当の本人は睨んでいるつもりなどはないと知っているが。
「…なんかあったんすか」
この男が仕事以外の話を振ってくるなんて珍しい、そんなに顔に出ているのだろうか。
「さっきから手、動いてないですよ」
「うるせえ、さっさと帰れよ」
書類に押印して突っ返すと礼もそこそこに退室していく。この社長に対するものとは思えぬ態度が良い。全員だと困るが、1人くらいはいても良い。
電話が鳴った。登録されていない番号だ。もう一度溜息をついて煙草とライターを片手に立ち上がる。
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