みぞれ・3

エアコンが静かに音を立てて動いている。空気が乾燥しながら暖められている。沈黙が続くことが怖くないから、自由に動ける。息が出来る。

「そういえばさ」

彼が言う。低い、ラジオから流れるノイズがかったバイオリンのような声だ。ビオラかな。美化しすぎだと自分でも思う。

「なっちゃんの前の彼氏、今度ウチと仕事するよ」

からだが固まる。なぜ知っているんだ。前の恋人と付き合う前から東城さんと会っていたけれど、恋人の話なんてしたことは無い。今まで恋愛の話だってまともにしたことは無い。のに。

「そ、うなんだ」

不自然だ。彼の顔を見られない。今のままでいたい。ラジオからビオラの音が流れて仕事の内容を響かせているけれど何も頭に入っては来ない。

彼がわたしの名前を呼ぶのが好きだ。なっちゃん。そんな風に呼ぶ人はあまり多くない。

「前田くん、仕事できるでしょ。贔屓にしてあげてね」

今日初めてしっかり彼の顔を見た。わたしと会う前から飲んでいたのかも知れない。少し目が据わっている。驚いている様に見えたけれど、彼は元々表情が読み取りづらいから違ったのかも知れない。一瞬後にはいつものふざけた顔になった。

「妬いちゃうなぁ。なっちゃんがそんな風に言うの珍しいじゃん」

「東城さんも仕事できるもんね、知ってる知ってる」

笑っていて欲しい。据わった目に欲情したことを隠すのは、彼に笑っていて欲しいからだ。特定の関係になれば楽しいことばかりではないし、離れなくてはいけない時が遅かれ早かれ来る。恋人同士だけの話ではなくて、友人や夫婦だとしてもそうだ。

支え合う、と言うのはなぜ、そこにいるだけでは駄目なんだろう。何があっても相手の為に行動していけるだけの愛情。前田くんはわたしといる時に何を考えていたんだろう。あの日々をぼんやりとしか思い出せない。だってわたしは。いまを。

「前田くん?は、どんな人?」

「んー?どうかなあ」

ビールをあおりながらこの話が早く流れてくれればいいと考える。そんなことを聞いてどうするのだ、わたしは、何の実もないアルコールとタバコの香りに満ちているだけの今のこの時間を愛しているのに。ソファの背に肘をついて何も話そうとしない彼が続きを待っている。
ほんのりと香水が香る。ノータイの首筋に目をやると彼は少し身じろいだ。わたしのことなんて、意識しないで欲しいのに。

「たぶんねぇ、やさしいよ。人の気持ちとは関係なく、自分で居られる人」

少し沈黙が流れた。自分で思っているよりも酔っているのかも知れない。

「なっちゃんはいられないの?」

「香水、なにつけてるの?いい匂いするね」

「はは。」

笑っていて欲しい。わたしとは関係の無いところで。これは彼を傷つけるのか。

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