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閉じることをあきらめた

 これまでずっとネットの交流とリアルの交流の線引きを大切にしてきた。Facebook以外はすべてハンドルネームを通してきた。

 最近、↑の記事でも書いたけれど、大学の社会人コースでつながった人たちとFacebookで交流することになって、“友達”がひとりもいない状況から脱しなければならなくなった。そう。扉はこじ開けられた。

 私には極端なところがあって、一度受け入れることを決めると「ええい。ままよ!」となるところがあって、もう友達申請はどんどん受け入れちゃうし、グループへの招待も承認しちゃう(笑)。あっという間に仲間が増えた。

 今年一年を改革元年と密かに名付けていて、何かに迷った時には新しいほうを(これまでやらなかったほうを)選ぶことにしている。物理的に時間ができたということもある。仕事を辞めたから。

 およそ20年間、ずっと変えなかったプロバイダの会社も変えた(面倒だったけど)。これまで通りにしがみつくことを止めるという心意気を絶賛表明中だ。

 思うだけじゃなく、行動で示す。

 気が緩むとすぐ元の巣穴に戻りたくなるので、何度も自分に言い聞かせている。

 戻ることや閉じることを積極的にやめたというよりは、記事の表題にあるように“あきらめる”ことを選んだ。退職という大決断をした以上、今までと同じではいられないのだから、今まで通りでいることをあきらめよう。ポジティブな意味で。

 気になることはすぐに確かめればいいし、気になった人には声をかければいい。つながりたいと言ってくれる人がいれば受け入れればいい。慎重になるのはその後だってかまわない。ちょっとリスキーな気もするけど、たぶんこの年齢までに培った自分の審美眼のようなものはある程度、信頼してもいいだろうし、無職の今は以前に比べて守るものが圧倒的に少ないのだ。

 閉じることをあきらめたら、自分の人生が新章を迎えたような気持ちになる。同じ映像のループのような日々を飛び出して、いまは新しい物語を紡ぐ毎日だ。

 とはいえ、毎日の中に繰り返しがあることには変わりない。一発逆転を信じるほど若くないから。
 以前との違いは、毎日、紡いでいるこの糸が何を生み出すのか分かっていない。それだけだ。地道さとていねいさの先に新たな創造があるという分別はある。

 流れをとめない。

 いまはそのことを考えている。せっかく閉じることをあきらめたのだから、その流れを楽しむくらいの冒険心があってもいいだろうと思う。


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