演技はつらいもの?
わたしはわたしのために料理をすることが好きだから、料理をします。このパンの間には魅惑のあんことクリームチーズがはさまっています。
2/21月 ほろびて『苗を植える』を観た。おもしろかった!はじめ、ランドセルが出てきた時、認知が歪んでいる世界に放り込まれたのかと思ってワクワクした。進むごとに、ヒリヒリとこの世界が現実ということがわかる。ラスト以外の独白のことが気になった。誰に対してどんな息遣いで語られているのかということが気になったのかもしれない。会話がすごく面白い!って思ったからかもしれない。特に、青伊知がまどかのを聞いているところにはとても感動した。パートナーに「なっている」状態になるからだ。わたしはつくづくこの「なっていく」という状態のフェチなのかもしれない。なっている、ではなく、なっていく。
青伊知のラストがあれで終わってよかったのかが私には判断つかなかった。あれで終わってしまうと、しかたなくそうせざる負えない5人、でなくなるのではないかと思ったからだ。だけど、行為を行ったのは、宇Rということ、子どもということの暗示がちりばめられた世界だから、それでいいのかもしれない。宇Rは、なっていた状態だったから。
ほろびての演技がよかった。演技における負荷のことが最近頭をよぎる。どこまで、どのような負荷をかけていくんだろうということ。それはセリフがどのくらい、担っているのかということ。なる、という演技をあまりいいと思っていない。なっていきたいのだ。
演技が「辛い」って感覚、わたしは辛さは結構大事なんじゃないかと思っている。言えないという感覚もですが。辛いを、
「テクストを他者の言葉として扱う」→「自分ごとでは扱えないから覚悟が必要でつらい」=「なんとか自分のものにしようとする」という葛藤?
という風に考えているところがある。わたしはできるだけ、書かれたテクストは他者の言葉として扱ってほしい。ならなくてよい。なっていくというのは、より辛い方を選択してください、ってことにもなるんだろうか。統一化された演技に興味がないというのもありますが。
セリフは、日常で言うようなものでなく、ある程度フィクションラインを内包しているものでもよい、ということになってくる?
その方が、演者と役の間にある膜をはぎとる、他者化させるなにかが含まれている気がする。わたしがようやく書きたいことができたことともつながってくるのかもしれないが。