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抑制類の使用の是非について考えてみよう。
今日は看護師としてのお話。
必要なもんは必要なんだよ。
身体抑制には同意書があって、生命の危機に瀕する場合やら、自傷の恐れが有る場合なんてことが多々書いてある。どういう意図で抑制帯を使用するのか、具体的な時間はどれくらいなのか等々いろんな人のサインやら監査やらを通して患者さんや患者さん家族の元へ届く。
病院で渡す場合にはほとんど反対はされない。「全然縛っちゃってください」と言ってくれる家族もいる。だって必要な状況は「生活」のためではなく「治療」のためだから。抑制帯を使用しなければならないのは「一生」ではなく「今だけ」なのが分かるから。
何が起こるか分からないから、予測できることは全て対策を打っておく。それが医療のやり方で、急性期であればあるほど患者さんの意思は関係ない。だって患者さんの意思も、生きていなければ尊重なんてできないから。話ができる様にならなきゃ、一般の人は生きてるなんて思っちゃくれないから。
生きるために必要。それはもう手段を選んでる場合じゃない。可哀想なんて言葉は生きていなければかけられない。
人によって異なる愛情表現の差。
同じ患者さんをみても、話し合って抑制帯を外す人、つけておく人がいる。患者さんから見れば外してくれる人がいい人になるのかもしれない。
でもそれは違う。抑制帯を外すメリット、デメリット、今までの看護師の経験で決めていくけれどそれはどちらも愛情表現の差。門限を厳しめに設定する親も愛情だし、連絡がなくても信じて待つのも親の愛情。外すことで危険にさらされてしまうかもしれない。そう考えて留まるのも愛情。外して少しでも自分の自由に動ける様になって欲しい。そう考えて外すのも愛情。
信じる方法に差があるだけ。
嫌だからこそ意味がある。
手術後に抑制帯を使用された、急性増悪して緊急入院になって抑制帯を使用された。そんなこと覚えてない人がほとんどで、記憶なんて定かじゃない。でも時には集中治療室退室後に「腕縛られたの嫌だったな」なんて思い返して話してくれる人いる。
私はいつも言う「嫌だったんだから、もう帰ってこない様にしてくださいね」。病院での療養環境が快適なのはいいことだ。でもそれはあくまでも病院であることを忘れちゃいけない。家より良い場所なんてない、普段の生活ほど幸せだったものなんてない。そう思うために、病気ってあるんだと思ってる。
病気は辛いものだ、嫌なものだ、でも看護師さんは良い人だった、外来ついでに会いにいくのも良いかもしれない。それぐらいのイメージが、私の思う一番の良い塩梅。