手を動かしながら考えて、それが「私」になっていく
転職活動に備えてあれこれ考えていたら、「昔の恥ずかしい思いで」がふと蘇って来た。もう10年以上も前のことで、ずっと目をそらし続けていたら忘れていた訳だけど、私ももういい歳なんだしきちんと精算しておこうかと。
きっかけは覚えていないけど、大学生の頃の私は「飢餓で苦しんでいる人の存在」にとても憤りを感じていた。教養で受けていた経済学の授業を聞いて、「経済学を極めれば飢餓を撲滅できるかもしれない」と考えた私は、工学部から他大学経済学部への編入を決意し、何とかその試験に合格した。受験が終わった後、編入先の新たな大学に通うまでに半年ほど時間があって、その間に色々と考えていたら、「人の価値などペット以下なのでは?」という結論に陥った。なぜそう考えるようになったか、当時のノートからまとめてみた。
社会には確かに貧困や飢餓が存在する。そして私は確かにそれを救いたいと思っている。テレビCMで「1円でも救える命がある」と言っていた。だとしたら、今私が飲んだこの缶ジュースを我慢すれば、救える命があったのかもしれない。昨日食べた学食の少しリッチな親子丼を我慢すれば、救えた命があったのかもしれない。それでも私はやめられない。クーラーのよく効いた部屋でゲームをして、友人と集まれば酒を飲み、お洒落な服を着て下手くそなギターをかき鳴らす。その堕落した選択の並行世界に、あったかもしれない誰かを守れた選択をどうやら私は選べないらしい。だとしたら私が貧困について考えているなど、冗談であり、謎である。
そもそも、なぜ飢餓を撲滅したいと考えたのだろうか。それは人が苦しんでいるからだろうか。それではなぜ、人だからという理由だけで助ける必要があるのだろうか。現にほら、私がペットに餌をやるということは、それは同時に誰かを助けることができたかもしれない選択を放棄していることを意味していて、そしてそれはつまりペットより人間の方が価値がないと判断していることに他ならないのだから。だとすれば、私ができることは、せいぜい自分の手がとどく距離にいる、自分が価値を感じられるものについて、何かをすることだけなのではないだろうか。
〜大学生の頃の私のノートから〜
いい歳のおっさんになった私が、この若者の主張を要約すると次のようになる。
僕は善人だと思ってたけど、よく考えたらそうでもなかったのでショックを受けましたorz
覚えたての機会費用の概念を使って、あったかもしれない並行世界の選択肢を考えてみた結果、自分のリソースの配分が「自分は善人である」という自己評価とあまりにかけ離れていることに気づいてしまったのだ。その自己評価とは「自分が何か善いことを考えている時間」だけで構成されており、それに気づいたあとは自分を恥ずかしく思い、嫌悪した。
いい歳のおっさんになった今、私が思うにその勘違いには何の問題もなかった。問題はそこではなくて、本ばかり読んで分かった気になって、何も行動に移さなかったことである。そこを恥ずかしいと思わなくてはいけない。せめて、例えばアフリカに実際に行ってみるだとか、そうでなくても募金活動でも何でもいいから、自分ができそうなことからやってさえいれば、手を動かすうちに気づきもあり、何かを考えられたはずなのだ。
もし過去の自分に何かを伝えられるとしたら、小林一夫さんとジョブスの言葉をそれぞれ聞かせてやりたい。
若い頃は、ふりをする人間が嫌いだった。やさしいふり、賢いふり、強いふり。偽物だと思っていた。自分は棚に上げてそう思っていた。今は違う。やさしくあろうと、賢くあろうと、強くあろうと一瞬一瞬努力している人たちだった。人のふりを受け入れるときが、自分のふりも赦せるときだ。
〜 劇画原作者、小池一夫さんのツイートより〜
人はある時から突然何者かにはなれない。それを恥じることはない。そうなりたいと思い、手探りで不恰好に進んでいくことで、事後的に何者かになることができるのだ。
Again, you can’t connect the dots looking forward; you can only connect them looking backward. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future. You have to trust in something — your gut, destiny, life, karma, whatever. This approach has never let me down, and it has made all the difference in my life.
〜ジョブスのスタンフォード大学でのスピーチより〜
だとすれば私がすべき唯一のことは、目の前にある「情熱を注ぐことができる何か」に全力で取り組むことだけである。フィナンシャルプラナーが描く平均値から計算された点をなぞるようなことはするな。今日、目の前の一点を迷いなく全力で打つ、それがいつか繋がり何者かになれることを信じて。