知っていれば相談したかった
喉元すぎて熱さ忘れる
この『ことわざ』を聞いたことはありますか?
熱いものも飲み込んでしまえば、熱さを忘れてしまうということから、苦しいことも、それが過ぎると簡単に忘れてしまうことのたとえで使われます。
それ以外にも、苦しい時には人を頼み、苦しさが去って楽になればその時受けた恩を忘れてしまい、ありがたく思わないことのたとえでも使われたりします。
たしかに、そうかもな~と自分自身の人生を振り返ってみてもそう思うのですが、中には忘れられない事もあります。それが強烈だったりしたら当然かなとも思うのですが…日常に紛れて気が付かないうちに蓄積した事などもあります。
「あのとき、知っていれば相談したかった」
この言葉をよく聞きます。とくに、子育てがひと段落した人たちから。もしくは、その時期は過ぎちゃったけれど、振り返ってみれば…という方々から。
「あのときは大変だった」
「そのときに聞きたかった」
「存在を知っていれば頼れたのに」
そう言って、自分が大変だったときの話などをしてくれます。
その内容は人それぞれ違うときもあるし、ジャンルとして同じようなこともあります。けれど、全体的に共通しているのは手探り感・孤立感・閉塞感かなと。これに関しては自分も感じていたことなので、専門的知識の有無は関係ないのだと実感しています。
もし、専門家としての悩みを打ち明けるとしたら…
なにか困ったことがあればネット検索ができる。
これって便利なようで不便です。気になることをを訴追しすぎて重大化してしまうことがあるからです。でも、検索をやめればそこから解放されます。
なんだけど…
専門的知識があると、検索しなくても知識のダダ漏れです。
ダバダバと知識があふれてきて止まりません。知識のシャワーが勝手に降り注ぎます。そうなることを話に聞いていたとはいえ、思考を止める術がないので結構、キツイものです。(思考を止める唯一の方法は眠ることだけです)かなり容赦なく降り注ぎます。
よく「専門知識があってうらやましい」「何事にも対処できそう」などと言われていましたが、わたしにとっては「知らないほうがうらやましい」となっていました。
情報を得ることと専門家を頼ることは違う
情報を得ることはしたけれど、専門家を探すまではしなかったということについては未だに「どうしたらいいのか」と考えることもあります。
どうしたら専門家に相談してくれるのだろう?
どうしたら存在を知ってもらえるのだろう…?
いま、まさに頼ってほしい私が行き詰まっている部分でもあります。
その原因として、いままでの教育環境にあるのでは?と考えてしまうことがあるのです(学校教育などを批判しているのではありません)
いままで、「困ったことがあれば調べなさい」と教育されてきたとしても、「困ったことがあれば専門家をたよりなさい」とは言われなかったな~と。むしろ、昭和世代なもので「調べてから聞いて」とか「すぐ人を頼るな」って言われてきました。
調べるツールとしてネット検索はとても便利です。でも、そこで情報を得たとして使い方がわからない。もっと不安になって、さらに調べる…不安が増す。
こういった流れの末、見るのが辛くなる
⇩
調べるのをやめる
⇩
でも、解決はしない。
⇩
辛い
⇩
ただ通り過ぎるのを待つ
もし、ここに専門家を頼るっていう方法があれば…
解決しない段階で相談したくなるだろうなって思います。
しかも、専門家に頼るのですから、SNSの過激な情報合戦とは無縁にもなりますし、スマホで検索しまくるという状況もなくなります。
何より、専門家がそばにいる安心感。これは絶大かなと思います。
そして、私のように知識のシャワーが出ている人はリラクゼーションのプロにお願いしたいものです。そうすることで、みんなの眉間のしわも和らぐかもしれませんね。
その結果、この時の辛さは喉元すぎて熱さ忘れるになるのかな。
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