自己紹介(*´ω`*)
皆様、初めまして♪
クマ美と申します<(_ _)>
本名は「熊谷 豊」といいます。
こちらのnoteでは、皆さんの日常をより素晴らしいものにしていくような情報や考え方、私が学んできた心の幸せに関することなど、どんどんと投稿してまいります☆
まずは初めての方に、私がどんな人間なのか、どんな人生を歩んできたのか、自己紹介をさせて頂きますね(*^_^*)
私は1980年、バツイチの母と家庭持ちの父との間に・・・
つまりは、不倫の間に生まれました。
とはいえ、そんな複雑な関係の間に生まれただなんて、15になるまで知りませんでしたけどね(;^ω^)
父は会社の経営者で、経済力はありましたから、本当に不自由なく育てて頂けたと思います。ありがたいことです。
ただ、私は物心ついた時から性別違和を持っていたのでね・・・
これが父との間に確執を生むことに繋がりました。
他の家に比べて、父は私達親子の家に帰ってくる日が少なく、月に1回程度しかありませんでした。
母からは、「お父さん忙しいのよ」と言われていて、そうなのか~、仕方ないな~、って諦めてましたが、小学校低学年までは本当にお父さんの事が大好きで、いつ帰ってくるか知らせが耳に入るとワクワクしたものです
(*´ω`*)
でも、中学入るころには、そんな父との間に壁を作り始めていきました。
性別違和の事、バレちゃまずい!
って思ってたんでねぇ~
というのも、私の父は見た目は普通のおじさんだったのですが(私を生んだ時には既に50歳をこえていたみたいです。ちなみに母が40の時に私を生んでます)、どこか近寄りがたいオーラを身にまとっていて・・・
どことなく怖かったんです(;´・ω・)
それが明確になったのは、私が中学2年生頃だったかなぁ・・・
父が私たち親子の家に会社の人を連れてきて仕事の話をしているのを見た時です。
父はその時既に会長職という立場で、父の周りを囲む人達は皆会社のブレーンといわれるような人達ばかり。
これがまたいかつい感じの人ばかりでねぇ(-_-;)
後から聞くと、元暴走族の総長だった、だとか・・・
もと筋もの、だとか・・・
両親が小さいうちにいなくなってしまって、兄弟6人を、泥棒から何から色々やってなんとか食わせてきた、だとか・・・
あまりにも非日常的な世界に生きてきた様な人達が勢ぞろいだったんです。
しかも、そんな人達が、父の事を『親父!』って呼んでいるわけです。
え!?なに!?Vシネマみたい!!!
こわぁ~!!!
あたしのお父さんって、何やってる人なの!?
ヤクザなの!?
・・・って恐ろしさが湧き出でたのを、今でも思い出します(;^_^A
※ちなみに、父は太陽鉱油という会社の創業者で、色んなお付き合いはあったと思いますが、普通の堅気ですw
ただ、学生時代には学生運動の中枢を担う存在だった様で、当局からはマークされていたそうです・・・。
そんな父ですから、もし私が性別違和を頂いていて、本当は将来女性としての人生を歩んでいきたい!と考えていることがバレたら、きっとめっちゃ怒られる!
・・・って思いこんで、私の方から心を閉ざしていってしまったんです。
今となっては、素直に相談・告白すればよかったなぁ・・・って思います。
愚かだったなぁ、って。
私が高校に入る頃には、父は心筋梗塞や脳梗塞など、体を相当壊してしまっていて、身体障害者手帳1級も持っていました。
そんな父の世話を、母がみることになったわけで、我々親子の家に3人で暮らすことになったのですが・・・まぁこの頃の父が最低でねぇ
(~_~;)
病気がそうさせるのでしょうが、兎に角我々親子にあたるんです。
体が不自由になってしまったその鬱憤をぶつけていたんだと思いますが、それが原因で母が鬱気味になって、交通事故まで起こしてしまったりしていました。
本当にこの頃の家の中は雰囲気が悪かった・・・。
私は学校から帰ってきたら、ほとんど自分の部屋に籠っていました。
それでも、私が高校を卒業し、大学に入った頃には、父も慣れてきたのか、母に対する態度も落ち着き、私にもとってもフレンドリーに接してくれるようになりました。
この時は本当に楽しかった。
でも、そういう時間ってのは長く続かないものなんですよね。
ある日、父が倒れて、そのまま近くの病院に入院することになりました。
私が面会に行った時には、もう父はまともにしゃべることも出来なくなっていました。
しばらくはその病院に入っていましたが、半年経った頃、むこうの家族に引き取られ、立派な老人ホームに入れられました。
周りの人達は、みんな良かったね、って言ってたみたいですが、私は絶対そんな風に親父は思っていない、って考えてました。
父の部下で大門さんって人がいたんですけどね、この人が我々親子に本当に親身になってくれてねぇ。
一度だけ、父の入っている老人ホームに招いてくれたことがあったんです。
母と一緒に、父のいる個室に入っていきましたが、寝たきりで以前よりも酷い状態になっている父がいました。
私を見るやいなや、まるで小さな子供の様に泣きじゃくるのです。
もう見ているこっちが悲しくなる程でした。
ほどなくして、私は部屋を後にしました。
そして、それが父との最後になりました。
1年ほど経ったある日の夜です。
母から電話があり、父が亡くなった事を知りました。
私達親子は、葬儀には参列しませんでした。
父のお墓がどこにあるかも知らされていません。
この頃の私は、まともに大学に通うこともせず、遊んでばかり。
最初の1年で取れた単位が9!
卒業の4年間で獲得しなければならない単位は128ですから、どう考えたって留年確定!
通っていた足利工業大学ってのは偏差値は低いくせに、こういう不真面目な生徒は親を呼び出して三者面談するんです!
でもね、この時母は私を一切怒らなかったんです。
母は考えていたみたいです。学校行きたくないのならば、別に行かなくてもいい。働けばいい。だから取り敢えずは好きにさせよう、って。
でもこれがこたえました。
親に何百万も払わせて(足工大は理系の私立です)、しかも留年したら余計に無駄銭使わせることになる。それだけはいけない!
そう思って、2年目からは遊びながらもきちんと学校に行くようになりました。
出席が足りない授業などは、直接研究室に行って、先生に頭を下げて試験を受けさせてもらったりもしました(点数はきちんと取りました)。
なのとか留年することなく卒業が出来ることになり、先生の中には
「熊谷は絶対留年だと思ったからなぁ!よく頑張ったなぁ、すごいよ!」
などと、普通に卒業しただけなのに褒められたりもしましたw
とはいえ、具体的な目標や夢もないまま、たまたま入社試験を受けたところが無事に内定に繋がってしまい、結局は周りが就職するからと自分も流されて就職したものの・・・
1年で退社(-_-;)
それからは職を転々としました。
営業マン、販売員、途中パチプロもやりました。
そして28歳の時に、中学の頃の友人のコネで入った会社で、パワハラや板挟みにあい、鬱病を発症。
会社を辞めて引きこもりになりました。
この時に、私は自殺未遂を行ったんです。
ちょっと長くなりましたね(;^ω^)
続きは、また次回!
こちらからお読み頂けます♪
https://note.com/ripplove_kumami/n/n6f7f913c17b3