見返りについて
いつの間にか、見返りを求めるようになっていた。私は、こんなに悩んで、苦しんで、あなたに尽くしたのに、どうしてあなたはそれに応えてくれないのか。そう感じることが増えた。だけど、私の行為は、例えば「出産した人にはお祝いを贈る」だとか、「旅行に行ったらお土産を渡す」だとか、そういう世間一般で良しとされる人付き合いの方法に倣っただけであって、儀礼的なものであるし、相手にとっては不要なもの、それどころか負担に感じられたかもしれないものである。だから相手に「ありがとう」の言葉を強要することはできないし、拒否されたとしても、おかしくない。まして、そのお礼など、本来、求めてはいけないもの。……頭では、分かっているのだ。
もしかして、私は、昔忌み嫌っていた、偽善的で押し付けがましい人たちと同じ人間になったのかもしれないと思う。頼んでもいないのに、お節介をしてくる人が、ずっと苦手だった。ありがとう、いつもごめんね、ありがとうと礼を繰り返していくうちに、自分が無力で、惨めに感じられるからだった。
しかし、歳を重ねるうちに、お節介な人たちの心模様が少しずつ理解できるようになってきた。きっと寂しいのだ。相手のために何かをしてあげることで、相手との関係を深め、愛されたいと願っているのかもしれない。もしくは、不安なのだ。自分の方が歳が上だとか、お金持ちだとか、あるいはその土地のことをよく知っているとかで、相手に与えることができる何か(知識や、金銭や、時間や、情報など)を持っている場合に、それを持て余しているのが怖いのだ。持っているものを差し出さなければ、ケチと思われ、やがて嫌われてしまうかもしれないと恐れているのだ。
30代になり、自分よりも若い世代に何かを与えるべき立場になっても、どのようにすれば良いのか分からず、いつも悩んでいる。おそらく、私はこれまで与えられる立場でいることに慣れすぎていたのだと思う。
何を渡せば喜ばれるだろう、どんな助言を欲しているのだろう、どういう手助けが必要なのか、何をされたら嫌なのか。分からない中で、相手のためを思って、一生懸命考えるのはとても労力がかかる。やっと最善の答えを見つけて、はい、と渡せば、大抵の人は申し訳無さそうに礼を言って受け取ってはくれる。でも、それは、何かをしてもらった時に礼を言って受け取るのが社会的に望ましいからであって、相手が心の底から贈り物を喜んだのか、本当のところは分からない。私の差し出したものが、確かに相手のためになり、喜ばれたのだと知りたくなる。
私の差し出したものを、相手がどのように価値づけたか知るための、手っ取り早く、分かりやすい指標が、相手からの見返りの有無である。私が尽くした労力に見合った見返りがこないと、虚しくなる。私だけが相手に尽くした(もしくは、そのや気になっていた)が、相手は、それに応えようとはしなかった。その意味を考え始めると、どうにも胸がざわめいてしまう。再び手を差し出すのが、怖くなる。そして、また私は一人になる。
先日、久しぶりに会った友人に、悩んで選び抜いたプレゼントをおそるおそる渡したところ、友人はそのひとつひとつをじっくりと眺めて、もらって嬉しい理由を笑顔で話してくれた。その瞬間、最近ずっと感じているモヤモヤが少し晴れた気がした。私の厚意は、偽善的で、計算高くて、本当の意味で相手のことを思いやることができていないのかもしれないけれど、それを笑顔で受け取ってくれる人が一人でもいるのなら、その人を大切にしなければならないと思った。