「日替わり定食 700円」の店で育つということ。
知っている人もいるかもしれないが、私の家は下町で小さな飲食店を営んでいる。
ふと、「飲食店の子特有の思い出みたいなものがあるのかな」と思ったので、せっかくだからここに書いてみる事にする。
※画像のお品書きは私の家のものではありません!あくまでイメージです!!🙇🏻♀️🙇🏻♀️🙇🏻♀️
そこは元々母方の家が始めたお店だった。
会社員だった両親は結婚して私を産んだ後、しばらくして脱サラし、父が婿養子に入る形でこのお店を継いだそうだ。
それがちょうど私が幼稚園生くらいの頃。
私の記憶では、スーツ姿で出社する父の姿を見たことがない。
だから父の日のプレゼントや父の誕生日プレゼントには毎年困る。
ネクタイやシャツを贈っても使う機会がほとんど無い父には、世間一般で言う「お父さんへのプレゼント」が通用しないから。
両親のフォーマルな姿を見た事があるとすれば、冠婚葬祭の場か、私達の入学式や卒業式、アルバムの写真に写る会社員時代の若い頃の二人くらいだ。
両親の昔の写真を見る度に、私がこの時代に生まれていたらきっと父を好きになっていただろうなと思うのはここだけの秘密である。
それくらいには中々イカすこのトレンディーなカップルが、20年後にはバリバリの商売人になっているなんて、人生何があるか分からない。
そんな我が家はずっと平日休みの週休一日。
土日に家族揃って何処かに出かけるなんて事はまず無かったし、唯一の休みの日も私達は普通に学校があり、両親は足りない分の食材の仕込みに出かける。
私は物心ついた時から家族とはそうゆうものだと思っていたから特に不満に思った事は無かったのだが、両親は休みの日に子ども達をどこにも連れて行ってあげられない事を気にしていたようだ。
だから夏休みはユニバやバーベキュー、冬休みはスキーや温泉に必ず連れて行ってくれた。
もし自分が親になったら小さい頃から子どもを色んな場所に連れて行ってあげたいと思うのは、私がそうやって育ててもらったからだ。
他にも、運動会やナンタラ発表会、授業参観や入学式に家族揃って顔を出すという事が少なかった。
両親のうちどちらかが来てくれるか、どっちも来れない日は父方の祖父が付き添いに来てくれて、他の子の家のように最後まで付きっきりで見てくれる事はあまり無い。
それは、私のお店が平日ランチの時間帯に命を懸けているタイプだからで、そんな大事な時間に従業員が一人でも欠けてしまうような事態はなるべく避けたい。
まあ一人っ子ならまだしも、四人も子どもがいたら全ての行事にいちいち顔を出してられないと私ですら思うし、それに関して他の子と比べて劣等感や孤独感を感じるという事も特に無かった。
それは、どんなに忙しくても、ほんの少しの時間だけでも、最後まで見てあげられなくても、必ず誰か一人は顔を出してくれたからだったと思う。
ただ、私は小学生くらいの頃まで飲食店の子である事を少し恥ずかしいと思っている時期があった。
もしうちが一等地の高級フレンチとか、由緒ある老舗の料亭とかならそうは思わなかったのかもしれないが、何せ我が家は「日替わり定食 700円」が売りの庶民的な店。
良く言えば人情味がある。悪く言えば小汚い。
同級生の男の子に「ボロ屋!!!」とからかわれて顔を赤くしている小学生の頃の私に代わって、今ならそのませガキにこう言ってやりたい。
「小汚い店の飯が一番美味いんだよ!!!」
そんな小汚い店には大抵の場合、コンビニで売ってる500円の分厚い漫画が置いてある。
それらは小学生の時点で既にエロに目覚めていた当時の私にとって貴重な情報源であり、Hなページを見たいが為に、両親にバレないようこっそりお店から漫画を持ち出していたのも今となっては良き思い出である。
もう一つ、友達にからかわれるのと同じくらい恥ずかしかったのは、お客さんと顔を合わせる時。
私の家は、お店の入り口の隣に、私たち家族の居住する二階へと続く小さな入り口がある。
お客さんの出入りの邪魔にならないよう普段はそっちの入り口を使うのだが、お客さんがいない時や鍵を忘れたとき、扉の前に自転車が置かれていたりしてどうしてもドアが開けられない時はお店の入り口を使う。
学校が早く終わった日にお店の入り口を使わないといけない時は、丁度お昼のランチに訪れたお客さんでほぼ満席の店内に入る羽目になる。
サラリーマンや常連のおじさん、近くの工事現場の人などが集まる店に、制服の女の子が一人で入ってくると凄く目立つのだ。
皆一瞬「え!こんな子が?」みたいな目で見てくるのだが、そこでじっと堪えて奥の厨房から一声、家族からの「おかえり!」の言葉が店内に響くのを待ってから「この家の娘ですけど何か?」と言うような顔をして颯爽と二階に上がる。
この瞬間があの頃は恥ずかしくもあり、今思えばちょっとだけ快感だったのかもしれない。
とは言っても、お客さんは私が学校に行っているお昼の時間帯にお店を訪れるため、そこまで頻繁に顔を合わせる事は無かったが、常連さんであればたまに話したりする事もあった。
印象に残っているのは、両親が「専務」と呼んでいた男の人。
パンチパーマで長身、いつも違う女の人と信じられないくらい小さな犬を二匹連れてよくお店に来ていた。
まだ小さかった私と妹には「お小遣いね」って毎回必ず500円をくれた。
気さくで、良いお客さんだった。
だが、必ず店の外で電話越しに誰かを怒鳴りつけていた事を私は知っている。
「専務」はただのお客さんであって、私の家族やお店とは何の関係もない事は確かなのだが、「専務」とは何者なのか、一体何の「専務」なのか、その他諸々含め「専務」については詮索しない方が良いと幼心に理解していた。
「専務」は「専務」なのであり、大切なお客さんのうちの一人なのである。
だけど、そんな「専務」も私が中学校に上がる頃にはめっきりお店に顔を出さなくなった。
理由は知らないが、彼とはもう一生会う事は無い気がしている。
ただ、もしまた「専務」がうちにごはんを食べに来てくれたら、あの時貰った500円は毎回駄菓子の山に消えていたよと教えてあげたい。
お客さんの話はまだある。
両親はよくお客さんにあだ名を付けている。それも勝手に。
来た人全員ではなく、特別仲の良い常連さんにだけ。
いつも何かしら汁物をこぼすお客さんは「こぼし」
箸を使わず全てをれんげで食べるお客さんは「れんげ」
近所に出来た子会社の中国人社長は、中川家の礼二に似ているから「れいじ」
お昼からビールを飲んで毎回2000円くらい使ってくれる気前の良いのおじさんは三遊亭小遊三師匠に似ているから「こゆうざ」
何の捻りもへったくれも無いし、お客さんにも小遊三師匠にも失礼極まりない。
名付けのセンスも名付けようとするその精神も、全てが最低最悪だ。
とは言いつつも、この前「こゆうざ」と初めて対面した時にあまりの小遊三っぷりに笑いを堪えるのに必死だった私も同罪である。
「れいじ」に関しては、礼二さんがネタで中国人のマネをしているのであって、毎回逆でしょとツッコみたくなるのだが、最近はむしろお客さんの方が礼二さんに寄せにいってるんじゃないかとさえ思い始めてきている。
でも、もし私が客だったらこんな店絶対に行きたくないものだ。
一体どんなあだ名を付けられることか、たまったもんじゃない。
無論、その人たちはそんなあだ名で呼ばれているなんて事はつゆ知らず。
でも、彼らの中であだ名を付けられていると知って怒るような人は一人もいないだろう。
皆ちょっとクセが強いだけで、本当に良い人ばかりなのだ。
それに我が家は”小汚い庶民店”だから、こんな暴挙も許されるのです。ワハハハ。
夕食の時には両親が「今日はれいじがね〜」なんて楽しそうに話してくれるのだが、ダントツで我が家の夕食時の話題に上がったのは「ヨーダ」というお客さんだった。
お察しの通り、あの「ヨーダ」に似ているからという適当な理由だけで母が付けた名前である。
「ヨーダ」は近所に一人で暮らす高齢のおじいちゃん。
昔から贔屓にしてくれていたのだが、85歳を超えてから自分で身の回りの世話をする事が困難になり、ヘルパーさんと暮らし始めたらしい。
ある日、「ヨーダ」が額にたんこぶ作ってお店に来たそうだ。
両親が訳を聞くと、「ヨーダ」は最近目が悪くなってきたそうで、そのせいで道を歩いていたら電柱にぶつかってしまったらしい。悲しすぎる。
挙句の果てにヘルパーさんに家に置いてあったお金を持ち逃げされるという、これまたとてつもなく悲しい話も聞いた。
「ヨーダ、最近来ないね」
なんて、両親がたまに話していたのも覚えている。
そんな話を聞いた数日後、「ヨーダ」は亡くなった。
私は直接彼を見た事も、交流があったわけでもないから「そっか」としか言えなかったが、一回でいいから本物(?)の「ヨーダ」に会いたかったなと思う。
だけど、私のお店が続く限り「ヨーダ」は私たちの記憶の中で生き続けるんだろう。
他のお客さんだってそうだ。
「専務」も「れんげ」も「こゆうざ」も。
一度でも私たちのお店に来てくれた事のある人は皆、もれなく全員我が家の歴史の住人なのだ。
だから、天国にいる「ヨーダ」に伝えたい。
あなたは決して独りなんかではなかったよ。
まだまだお客さんのエピソードは沢山あるが、これくらいで切り上げて次は厨房側の話をしよう。
飲食店には飲食店同士のコネクションがあるらしく、私の知る父の友人はほとんど皆飲食店関係の人達だ。
幼い頃から家族ぐるみで仲良くしているのが、鰻屋さんの三人家族。
一日中鰻を焼いている店主の体はタレと炭火のにおいが染み付いていて、その人がいると遠くにいてもにおいですぐに分かる。
まるで歩く蒲焼である。
あと、私の家より小汚い、と言うよりもう"大汚い"レベルの中華料理屋で働く若い(と言っても30代後半)のお兄さんとも交流がある。
そしてこの鰻屋と中華料理屋はちゃっかり「孤独のグルメ」と「アド街ック天国」に出演している。
皮肉にも、私の父はどちらも録画して見るくらいにはお気に入りの番組だ。
場所的には三店舗とも大して離れている訳ではないのに、何故か私の家には松重豊も山田五郎も来ない。
薬丸裕英に関しては来る気配すら無い。
二人から謎に"孤独のアド街ックマウント"を取られてちょっと悔しそうな父を見ると申し訳ないが毎回笑ってしまう。
そんな父の盟友、鰻屋の店主(通称:蒲焼マン)のように、飲食業をやっている人は大体皆何かしらの食材のにおいを体から放っている気がする。
私の両親は油と玉ねぎのにおいだ。
私もたまにお店の手伝いをする事があって、一日が終わる頃にはしっかり油と玉ねぎのにおいになっているのだが、それも特に臭いと感じた事は無かった。
むしろ「ああ、いつものにおいだ」と、安心さえする。
においは努力の勲章だ。
ただ、普通に生きていたらまず嗅ぐ事のないこのにおいに嫌悪感を感じる人もいるだろう。
だけど、食べ物を提供する側の環境で育った私は、「食べる」って色々な意味でそんなに"綺麗事"じゃないんだぞと思ったりもする。
お客さんからは見えない厨房の中はいつだって、荒削りで、大胆で、忙しない。
火、汗、水、そして最も生と死に近いところにある強烈な命のにおいが、厨房に、体に、記憶に染み付いて離れない。
それはつまり、食べ物を扱う者が纏う、"責任"のにおいなのだ。
だからといって、両親は普段から食に厳しい訳ではなく、自分達が食べる物に関してはそんなに気を使っていない。
二人とも食材の目利きはある程度出来るが、家で食べるモノは大体質より量。
何せ子どもが多いから、コスパ重視だ。
最近何かと「業務スーパー」という名前を聞くが、あれほどブームになる前から我が家では仕入れの関係もあって足繁く通っていた。
だから家の調味料や食材は全てが業務用サイズ。
小学生の頃、友達の家にお泊まりをして初めてあのキューピーの普通サイズのマヨネーズを見た時、世のマヨネーズはみんなこの大きさなんだ…私の家のマヨネーズがデカすぎるだけなんだ…と衝撃を受けたのを覚えている。
「うちはもっとデカいマヨネーズ使ってるよ」という謎の暴露をしたところで、別に何の自慢にもならない。
"孤独のグルメ"や"アド街"ならまだしも、"デカいマヨネーズ"ではマウントは取れないのだ。
それに、「あの子の家のマヨネーズ、デカいらしいよ」なんて陰口を叩かれるのだけは勘弁だ。
以降、私はデカマヨの事について友人に話すのはやめようと心に誓った。
また、脱サラして飲食の道に進んだ両親は生粋の料理人では無いからこそ、飯は美味ければ何でもいいみたいな所が多少ある気がする。
父は調理師免許を持っており、見た目は栗原心平さんをもっと太らせたような感じで見るからに美味しいものを作りそうな人だ。
魚を捌いたり、出汁をとったりは得意なのだが、お弁当やお菓子作りなどは苦手。
器用なのか不器用なのかよく分からない。
そんな父の食べる物が幼い頃は全て美味しそうに見えた。
特に、食パンにチーズとハムを乗っけてトースターで焼いた後、上からとんかつソースをかけたやつ。
この料理と言えるのか怪しいジブリ飯っぽいやつがすごく好きだった。
今食べたらまあ普通だなという感じなのだが、その時は凄く美味しく感じたし、何より父と同じものを食べているという事が嬉しかった。
母は父と正反対。
家で出される食事はほぼ全て母が作っていた。
私にとっては、
お店の味=父の味、家の味=母の味
という感じ。
そんな母は何でもご飯の上に乗せる、オンザライス系の人だ。
その日の夕食のおかずを全てご飯の上に置いて、自分だけの小さな丼を作る。
全てがそのお茶碗の中で完結するようになっていて、まるでその日の晩ご飯の縮図のようである。
というか、母は何でも白米と一緒に食べる。
もんじゃを白米に添えて食べたり、焼きそばをおかずに白米を食べたりしている姿を見ると、何とも言えない気持ちになる。
そんな我が家ではもちろん、シチューと白米はセットで出されていた。(私は早熟な子だったので、シチューオンザライスは小学生の頃に卒業した)
そんな白米狂の母だが、どちらかと言うとパン派らしい。
なんやねん。
そんな両親の元で育った私だから、小さい頃からごく自然に料理をしてきたし、今もよく料理をする。
料理は楽しい。
そう思えているのもきっと両親のおかげだと思う。
両親は、今も昔も、私や妹の作った料理に冗談でも「まずい」なんて言葉を言った事が無かった。
絶対にだ。
食べる前には「これ全部作ったの?凄いね!上手だね!」と褒めてくれ、食べる度に「美味しい!」と言ってくれる。
明らかに失敗してたり、作った本人ですらコレはダメだと思ったものでも「全然食べれるよ」と言って全部食べてくれた。
別に無理している感じも一切無い。
飲食業をやっているからなのか、それともただ単に私達が可愛いだけなのかは分からないが、そういった優しさが今も私が料理を好きでいられる一番の理由だと思っている。
その割に、私達にお店を継がせる気は無いそうだ。
女の子には継がせたく無いそう。
昔の人だなあと思う反面、私も簡単に継ぐなんて言えない。
それくらい飲食が大変な仕事だと言う事は、長女として両親を一番近くで見てきたからこそ分かっている。
今ここで話した事は全てポジティブな思い出だ。
何度も衝突し、家族で苦難を乗り越えて来た姿も知っている。
それでもこの小さな店で一度も赤字を出した事がないのは、両親の努力の賜物以外の何物でもない。
家族で夕食を囲む時、父は酔っ払うと聞いてもないのにお店をやめた後のプランを嬉しそうに話してくる。
曰く、茨城のあたりに別荘を建て、そこで母と週4日くらいで鉄板焼屋をやりつつ、残りの日はキャンプやDIYをしたり、まだ存在しない孫と戯れるのが老後の夢らしい。
それが実現した頃には、孫から「おじいちゃんってソースのにおいがするね!」なんて言われているのだろうか。
母は老後について特に明言しないものの、海と暖かい場所が好きな彼女の事だから、南の島でのどかに過ごしたいと思っているのだろう。
たまの旅行で海を訪れた時、いつもは大人っぽい母が時間を忘れて無邪気に水や魚たちと戯れている姿は愛らしかったし、とても美しかった。
私の記憶の中の、絶対に忘れたくない光景の一つだ。
仕事に家事に、すでに一生分働いていると思うから、母にはどうかゆっくり暮らして欲しい。
そんな私の家の周りでは、何年か前から小規模ながら再開発の工事が進められており、新しい建物やマンションが続々と建ち始めている。
「専務」から貰った500円を全額惜しげも無く溶かしていた駄菓子屋も、気付いた時には空き地になっていた。
昔からの顔馴染みのお客さんは一人、また一人と姿を見せなくなり、その代わりに工事現場で働く人達がランチに来てくれるようになった。
コロナになってからは営業時間を短縮したり、お弁当の販売を始めたりして何とか切り盛りしている。
同じ場所で長く商売を続ける事の厳しさと切なさ、ありがたさと感慨深さを、時の流れが気付かせてくれる。
だが、時代と共に変化してゆくものの中で、変わらないものもある。
それは料理の味だったり、人の温かさだったり、仕事終わりの油と玉ねぎのにおいだったり。
何よりも、昔からずっと変わらない、あの声。
外から家に帰るとお店の奥から聞こえてくる、「おかえり」の安心感。
帰りを待ってくれている家族がいる事、いつだってそれが一番嬉しかった。
変わり映えしない平凡な日々を、幸せと呼ぶのだろうか。
それなら私はこの先も、そんな変わらないもののそばに居たい。
そして生まれ変われるのなら、また飲食店の子になりたいと思う。
もちろん、「日替わり定食 700円」の店の子に。