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トランスジェンダーは惣流・アスカ・ラングレーの夢を見るか

あらかじめ断っておくが、この文章は『新世紀エヴァンゲリオン』の知識がないと読みにくいかもしれない。



私は、惣流・アスカ・ラングレーが嫌いだった。憎んですらいたと思う。

 惣流・アスカ・ラングレー、彼女は日本のアニメーション作品『新世紀エヴァンゲリオン』に登場するヒロインの一人である。しかし、私は本当のところ、ヒロインであると認めたくはなかった。

 ここからは惣流・アスカ・ラングレー氏のことを「アスカ」と呼ぶ。これは親しみを込めて呼ぶわけではなく、記述上の問題である。

 私と『新世紀エヴァンゲリオン』の出会いは20年以上も前のことで、本格的にアニメを見たのは10歳の頃、親にレンタルビデオをねだった時であった。

 本当に、本当に心が惹かれる作品だった。

 元来特撮が大好きだった少年のころの私には、庵野秀明氏の描くおそるべき「使徒」の描写と、些細なところにも宿るそのアニメーションの神性は本当に心躍らせるものだった。もちろん、今でもそうである。
 ストーリーにおいて、主人公である14歳の碇シンジ少年はエヴァのパイロットとして、保護者である葛城ミサトと同居する。中学では彼のパイロットとしての葛藤を受け入れた友達ができる。鈴原トウジと、相田ケンスケだ。そして、不思議な少女で同じエヴァパイロットの綾波レイと共闘し、笑顔を交わし、少しずつ距離が縮まっていく。

 素晴らしい作品だった。シンジの心の動きは本当に共感できるものだった。父親との距離、戦う理由、恐怖、そして、同居する保護者との関係性を新たに築くときの気まずさと、どこかいたたまれない気持ち、突然殴られた時の理不尽さ、そして、自分の葛藤を受け入れてもらった時の照れ臭い喜び、そして、自分よりより不器用に生きる少女と心が通った時の喜び、大切な人が生きている喜び。
 その一つ一つの描写が繊細で、丁寧かつダイナミックなアニメーションに溶け込んで、私は本当にこの作品に出会えたことを感謝していた。嬉しかった。シンジがとても残酷な世界で不器用に友達を、家族を作っていく様は本当に美しかった。

 だが、それも7話までの話だった。


 8話のタイトルは「アスカ、来日」である。



 私は、初めて見た時から、最初に見た時からアスカが本当に嫌いだった。第一印象から最悪だった。わざわざパンツを見せておいて平手打ちをするという暴力性と性的なふしだらさに本当に辟易した。

 アスカは、私の目には世界の破壊者に見えた。シンジの作りあげた美しい彼自身のカタルシスを目指している世界観を、「女である」という理由だけでとことん破壊していった。そのエリート意識も、人を馬鹿にした態度も、女でありすぎるところも、何もかもが軽蔑に値する存在だった。

それからのエヴァのストーリーにはここでは触れない。

 ただ、私はあのシンジの救済がなされそうだった美しい世界を、根本から破壊したのは使徒ではなくあの獰悪なアスカという女性だと確信した。

 アスカという獰悪の権化たる醜女が、シンジという主人公との関係性を構築するにあたって、さも自分が愛される権利があるかのようにふるまっていた。特に、私の気に障ったのが、シンジに対してのコミュニケーションにおいて、自分が女性であり、そしてシンジにとっての異性であるから、その異性であることをコミュニケーションにおける位置エネルギーとして利用することが本当に卑怯に思えたからだ。
 「性的である」ということをある種の武器化するというのは、実に不誠実に思えて仕方がなかった。何よりもシンジが内向的に、自分の欲求を押し殺しているのに対し、アスカの奔放さが私にとっては精神的未熟性に見えた。そして、その未熟さ、粗暴さ、そういった人間的な欠点を女というガワをとってつけただけでそこに価値を見出してしまう、エヴァンゲリオンの世界観そのものが嫌だった。
 あの作品において、シンジにとっての「異性」はアスカただ一人だったはずだ。
 特に、エヴァンゲリオンの第拾話「マグマダイバー」が許せなかった。アスカは水着を着るだけでシンジを誘惑させている。アスカはシンジが水着の自分を性的に見ていることを前提にコミュニケーションをとっている―

 これは、当時の自分にとって本当に腹立たしいことだった。人の好意というのは、長年のコミュニケーションで勝ち取って、お互いのことを知って初めて生まれるべきもので、それが「真実の愛」であるはずなのに、アスカという人間はシンジの好意を、生まれ持った性別によって一足飛びに獲得してしまう―

 歳も同じで、母親のクローンでもなく、使徒でもなく、一人の人間なのだが、シンジが無条件にアスカの精神的な未熟性を許してしまう理由であるところの「異性」というのは、言葉にならない性別違和を抱える、思春期の私にとっては使徒以上に理解不能で理不尽な存在だった。「女」という存在がいるだけで男は本当にアホになってしまうのは知識としては知っていたが、自分を重ねる碇シンジにとってそのようなノイズは許されるものではなかった。

 思春期の私は、言葉にならないが人に性的に惹かれることもあったし、「真実の愛」を信じてもいた。ただ、人が惹かれあうプロセスに必要な武器を、自分が持っていないとしたら、それは本当に理不尽で許せないことだった。私は自分が性的に人を惹きつけることを前提としたようなコミュニケーションをして関係が一足飛びに進んでしまうのなら、リツコさんの言った「ヤマアラシのジレンマ」とはなんだったのか。
 私は、「女」という武器を持ったアスカは世界に対してルール違反をしているように思った。


 よってアスカは死ななければならない



 私は本当にエヴァという作品を愛していた。様々なゲームを買った、プレイした、絵も描いた、下手くそな絵で同人誌のようなものにも挑戦した。所謂SSと呼ばれる小説も書いた。私は、高校生になるくらいの頃にはエヴァの二次創作の作品をなんとしても作りたかった。そのため、ゼロから絵を学ぼうとした、ケータイ小説に挑戦した、2chのエヴァ板に入り浸った、自分の思い通りのエヴァ世界を作ることができる「エヴァンゲリオン2」というゲームをひたすらプレイした。それは私の愛するエヴァの世界を作り上げるため。

 つまり、アスカを殺すため。

 もちろん、アスカはエヴァのキーパーソンで、エヴァ世界には必要不可欠な存在だ。それはわかっている。彼女抜きで、エヴァはエヴァ足り得ないほど、奥行きの深いヒロインだ。

それでもアスカは死ななければならない。

 私は、アスカのいないエヴァの世界にあこがれていた。彼女のいない世界は私にとってあまりにも美しいから。
私はいわゆる腐女子(性別移行についての話は割愛するため、一貫して腐女子と称する。ジェンダーアイデンティティは終生変わっていないものとして本文中では扱う。)でもあったので所謂「カップリング」というものが好きだった。
 シンジは、よりにもよって原作であるアニメにおいて、獰悪の権化たる醜女アスカに心惹かれていってしまうのだが、それは、思春期の私にとって本当に理解不能な感情だった。何一つ、心惹かれるものを共感し得なかった。私は、碇シンジというものと自分を重ねることが難しい点は、まさにそこだった。
 この世界は完璧に、美しく、回っていてほしい。私の望む、「少年でありたかった」私の世界に重く、深く、そして暗くのしかかる事実が、シンジがアスカを好きであるという暗澹たる事実だった。私は、その一点において碇シンジになり損なった。
 
 私は、アスカに惹かれる人間でなかった。

 思春期の私は、少年をうまくやっていけなかった。

 私は、2chのエヴァ板や、授業中の落書きで、シンジを書いた、描いた。アスカのいない世界を作るために必死だった。そんな腐女子のなり損ないだった私が至った結論ともいえるカップリングがあった。シンジの世界を壊さない、彼自身の救済の物語のための、たった一つの素敵な、最高のパートナーを私は見つけ出した。

 相田ケンスケだ。

相田ケンスケ(筆者画)

 ゲーム「エヴァンゲリオン2」をご存じだろうか。エヴァのキャラクターの一人として、誰と親密になってもいい、どのような終わり方をしても良いし、プレイヤー一人一人の望む世界を作ることのできる素晴らしい作品だ。思春期の私はゲームに没頭した。

 私は碇シンジとしてこのゲームをひたすらにプレイした。来襲する使徒をどんどんと倒し、理想のエンディングを目指さなければならない(もちろん、目指さない自由もある)のだが、私はこのゲームで初めて「リセマラ」というものを行った。
 「リセマラ」の内容は単純である。このゲームは来襲する使徒の順番はランダムだ。なので、第一話でアスカがやってくるまでリセマラをする。そして、アスカが出現をしたらセーブする。次に、第二話でアスカが死亡するまでリセマラをするのだ。私はアスカの死にそれほどまで執着していた。メモリースティックのセーブデータのほとんどが、アスカのいない世界の「始まり」を新たにプレイする土台で占められていた。
 そして、できあがったアスカのいない清浄な世界で私はシンジに自分を重ねて、幸せになる方法を模索した。その結論が、相田ケンスケだった。

 このゲームには、キャラクターと親密になると、様々なイベントが起きる。そのイベントで私が本当に愛していたのが、相田ケンスケとのそれだった。
 ケンスケが、シンジを秘密のひまわり畑に連れていく。そこで写真を撮りたいとケンスケは言うのだが、カメラを取り出さない。シンジは、ケンスケになぜ写真を撮らないのか聞くと、ケンスケは記憶にだけ刻みたいのだという。いつ、シンジも自分も、この世界もめちゃくちゃになってしまうかもわからない、刹那的なかの世界のなかで、自分だけの記憶いうファインダーに納めたいのだと―

 私が相田ケンスケという、どこかモブのようなキャラクターを愛したきっかけがそこだ。私はあのエヴァの世界の中で、シンジにとっての救済のためのパートナーは彼しかいないと思った。彼は、エヴァンゲリオンのパイロットでもなく、クローン人間でもなく、使徒でもなく、あの世界の中で唯一、友達であり、パートナーであり得る存在だった。

 思春期の時、エヴァンゲリオンの設定資料集や原画集を買い漁った。絵を学ぼうと思った。高校を中退して絵の定時制高校に通いたいと親に話した。(とてつもなくなじられた)すべては、相田ケンスケを描くため。
 もう捨ててしまったが、ヤシマ作戦のロゴが入ったファイルの中に、飽きっぽい私が唯一完成させた作品があった。ケンスケとシンジがひまわり畑の中で結ばれるという、ごくごくありふれたBLのような作品を描いた。
 当時、自分の感情が好意だとわからなかったとき、好きだった友だちのことを「相田ケンスケに似てるな」などと考えていた。

 私はなぜ、相田ケンスケを愛したのか。

 私はなぜ、惣流・アスカ・ラングレーを愛せなかったのか。

 思春期の自分へのその問いを、作品の中に積み重ねていった。
 思春期の私は、学ランを着ていたから、アスカを許せなかった。

 そんな私が、アスカを受け入れることができたのは2021年のことだった。『シン・エヴァンゲリオン』の公開年だ。

 そのころの私はようやく自分のセクシュアリティの問題が「決着」していたころだった。性別適合手術を受け、生活するジェンダーを女性として生き、友だちも増えた。恋人もできた。私は思春期のころとは違って、シンジに自分を重ねる必要がなくなっていた。まだいびつな形だし、積み重なった澱は「解決」することはなくとも、自分がどういった生き方をしたい人間で、誰が好きで、どうありたいのか、ようやく舵をきっていけるようになった。
 私は、知らず知らずのうちに、自分が理解できていなかった、「女」としての立ち位置を馴染ませていた。わたしは、どのようなジェンダーであろうとも、ジェンダーは「やっていく」ものだと思っている。自分でも、女をある程度やっていけるようになった。
 私は日常の中で唐突に自分語りをするし、すぐに海外旅行の自慢をするし、惚気話が大好きで、とにかく褒められたがりの人間だ。家族の前ではあまり話さないが、女としてやっていっている友達の前ではかなりべらべらとしゃべるほうだと思う。いつのまにか、それが当たり前になっていたし、じぶんがよりよく見えているかどうかを気にすることをいつの間にか臆さない人間になっていった。
 私は元来ADHDで、日常生活に様々な困難を抱えているタイプの人間なのだが、性別移行してからは、その生き方を女性としての「奔放性」というジャンルに軌道修正していこうと考えていたりもする。
 そんな己が許してこなかった自閉的世界へのルール違反に気が付いたのはつい先日のことだ。友人と、陰・陽キャとはなにかを話しているときに、
「私、陰キャやけど朝倉未来(総合格闘家)ちょっとかわいいと思って、陽キャいけるかも知れん。」
と発言をしたとき、友人が肩を震わせ後方に身を翻した。
「なに?え、なに?変?変かなあ??」
私は問うた。友人は腹を抱えながら、声を絞り出した。
「おっ…おんな…女しぐさ…っ!」


そのとおりである。
 「女である」という条件があるからこそ語ってしまった「朝倉未来かわいい」という発言は、自分が男社会の暴力やカーストから逃れているから、あるいは零れ落ちてしまっただけかもしれないが―だからこそできたまさしく「アスカしぐさ」だった。
 私はいつの間にかアスカという存在を内在化していた。いつの間にか、アスカという存在をノイズのように扱うことはなくなり、もはやそれを自分のものとして扱ってしまうようになった。

 『シン・エヴァンゲリオン』では、アスカにはパートナーがいた。
 そのパートナーは、相田ケンスケだった。

 あの日、私は、一緒に映画を観に来ていた友達の横で静かに涙を流していた。

 作品内でアスカは、ケンスケに救われていた。そして、みんな『エヴァンゲリオン』という舞台から卒業していった。

 ああ、もう私はようやく、碇シンジから卒業できたのだな。と思った。もう、アスカを憎まなくても、ねたむ必要もなくなっていた。私は、碇シンジではない自分になって初めて、『エヴァンゲリオン』を観ることができた。私はずっと救われたかった。自分がわからなかった。アスカを好きになれないから、自分が怖かった。でも、そんな私を庵野監督の作品は救ってくれた。

 私は、今はアスカとともに在れる。

 私は本当に、エヴァンゲリオンを愛してよかった。



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