私さえ我慢すれば・・・は女性の身体を蝕む・・・母の癌からの大切なメッセージ

私の母は もう20年近く前に 乳がんが再発し他界しておりますが

生前も(私が子供の頃なども)

何度か 病気が発症して 入退院をしております。

我慢強く 大人しかった母の姿を振りかえると

もっと我慢せずに 言いたいことを言ってほしかったし

真面目もいいけど もっと好きなことをしてほしかったと

思います。

我慢すると 病気になるというお話があります

女性も 子どもも 男性だって そうですね

女性は 言いたいことを 言わずに 口を閉ざしてしまったり

感情も 感じることを 抑圧して 蓋してしまったり

身体の声を聴かずに 無理したりすると

病気になるのだと思います

病は気からとも言います

女性は特に 言わなかった言葉 我慢した思いや

封じ込めてしまった感情

飲み込んでしまった思いを

身体にため込んでいくのですね

あなたは 言いたいこと 伝えたいこと

自分の思いや感情を 表現していますか?

うちの母は 昭和の母の典型と言いますか

父の言うことを聞いて 我慢して

風邪ひいても 熱があっても 夕食は作ってから寝てましたし

家事も さぼることもなく 化粧も ほぼせず 地味な人でした

怒鳴る父に 歯向かったこともなかった

おとなしくて あまり感情を出さない 我慢つよい人でした

専業主婦で 病気がちで 経済的にも自立できないと思っていたようで

私には よく 「手に職をつけなさい」と

習い事や 教育には 多くのお金をかけてくれてました。

でも それは 自分が 離婚できずに 我慢するしかなかったから

そんな思いを 娘にさせたくないという気持ちだったことも

今はわかります

家庭から出ることが きっと 不安だっただろうし

父の経済力に 全面的に頼っていたし

病気がちだった母は きっと あきらめてしまったのだと思うのです

自分の人生をね

というか そもそも 女性の生き方としての選択肢がないように思っていたので

受け入れることしか思いつかなかったのでしょう

時代も違うし シングルマザーも そんなにいなかった時代

我慢するから 余計に 身体に病気が出る

病気が出ると 体力にも自信がなくなり

高齢になるにつれて どんどん 体力も落ちていく

弟が 自立した後は パートで 近くの会社で 働いてましたが

少しは自分の時間を持てたのかな~(会社の人と遊びに出かけたりして)

ちょっと 綺麗になった母を見たのは

ほんの数年でした

そのうち 乳がんが再発して 

62歳という若さで 亡くなりました。

女性は 我慢すると 女性が持つ臓器が 病気になりやすい

特に 女性性を否定するような思いは

乳がんや 子宮がんなどの 婦人科系の病気が起こりやすいのですね

「私さえ我慢すれば・・・丸く収まる」

「私さえ我慢すれば・・・・みんな幸せ」

本当に そうでしょうか?

お母さんが 幸せではないことは

子どもは ちゃんと知っています

ダイレクトに 伝わっています

私のように「お母さん かわいそう」という

謎の罪悪感を生んでしまい

子の人生に 深く影響していきます。

女性は 我慢をため込みやすい分

身体に症状が出やすい方も多いと思います。

女性だから 経済的に自立が難しいから

女性だから 男性の言うことを聞く

女性だから 家庭にいて家事と子育てすることが当たり前

男尊女卑が まだまだ根底にあった社会で

女性性を否定してしまうことも 多くの女性にあったでしょう

母は 人の言うことを聴いて

祖母の いい娘で 言いつけを守り 学校でも優等生で

家のお手伝いを しっかりして 育ってきました

父と結婚してからも 専業主婦で 親孝行をして

家計を守り 真面目に 父の言うことを聴いて

母が わがままを言ったことも聞いたことがありませんでした

乳がんで 最後の入院をしたとき

今まで 子宮の病気で手術した時も

泣き言も 「痛い」という 一言も 言わなかったし

乳がんの 一回目の手術の時も 「つらい」とも「痛い」とも言わなかった

自分が どんな思いでいるのかも 言わずにいたんです

でも 私にはそれが すごい我慢強い人だって思ってたけど

今考えると その我慢強さが かえって病気にしてしまったのではないかな?と

思うのです

小さいころから 感情を 表さない母が 遠く感じて 何を思ってるのか?

ぜんぜん わからなくて ここにいないって 感じてた

「心 ここにあらず状態」です

我慢しすぎて 自分のことがわからなかったんだろうね

だから 私も 感情を表さない子供になり 我慢つよくなり 

我慢する必要もないところで 我慢してしまうことがいっぱいだった

そんな母が、不幸そうに見えて 子どもの私は寂しかったし 悲しかったのよね

母が選んだ人生なので 今は それでよかったのだと思うこともある

経済的に恵まれた生活も

なんだかんだと言っても父に守られていた母

老後に 高額医療も 衣食住も 何も困らず 好きなものを買えた生活

それは 父と結婚してたからだったから

晩年は 父も いつも母の世話をしていたので 2人で旅行したり

仲良く暮らせたのかもしれないって思ってた

話が戻るけど 母が最期の入院をしたときに

転んで 腕を大怪我して 手術になってしまったのね(これも不思議な展開で)

それで 私が最後に 宿泊許可をもらった母を連れての

家族旅行に連れて行ってあげる約束が果たせなかったのです

その時の 事故で折れてしまった腕の手術の後

母が 初めて 泣いたんです

「痛いよー」「痛いーー」って 

そんな 感情を表した母を 見たのは初めてだった

ガンが もう全身に まわっているのはわかっていたので

脳にも 転移してた関係で 耳も 聞こえなくなってたの

だから 筆談して 話してた

でも 自分が話す分には 普通には 話せたのね

不思議でしょ

耳が聞こえないと しゃべることも出来なくなるのでは??と思うのだけど

母は その時 話すことはできたから

「痛い」って 「嫌だ」って 泣いて

子どもに かえったように なっていたの

その母が とても愛おしくてね 可愛くて・・・・

弟と 弟のお嫁さんと「かわいいね」って

感情を 表わして 泣いてる母が 可愛くて 赤ちゃんみたいで

そのまんまで 愛おしい存在で・・・

母が 良妻賢母のように 我慢してた時は

こんな気持ちになれなかったのだけど

子どものように 

「痛いよ」「あれ食べたいよ」「もういやだよ」 「つらいよ」って

泣いたりしてる母が 愛しくてたまらなかった

最期に やっと感情を出してくれた母

耳が聞こえなくなったおかげで

もう 人の言うことより 自分の言いたいこと言っていいんだよって

身体が 最後の ご褒美のように 機能してくれたとしか思えないのです

もう 「人の言うことなんて聞かなくていいよ」って

自分の感情をだしていいよって

これは 母が なくなって

その後 思ったのだけど・・・気づいたのだけど

子どものころから ずっと 祖母の言いつけを守り

自分のわがままを言わず 人に気を使い

人の話や 回りのいうことばかりを聴いて 

言い返すこともせずにきた 母の人生

最後は きっと 人の言うことを もう

聞きたくなかったんじゃないかな?って

思ったのです。

耳が聞こえなくなったことで

人の話も 聞かなくていいと 身体が教えてくれた

そして 初めてのように 自分の感情や思いを

表現することが出来たのではないかと思うのです

女性は特に (母の時代に) 人の言うことを聞きなさい

上の人の言うことを聞きなさい

大人の言うことを聴きなさいと強制のように 言われ

いい子で 従順な子供が いいとされてきますよね

そして そんな母から 生まれた私は 同じく

おなかの中から 感じていた通り

人の言うことを聞く 従順な おとなしい子供として

感情を表さない 人の顔色を見る子どもに育ってきました

人の言うことを聞くって

本当は 人の言うとおりに 言いなりになることではないのだけど

人の言いなりになるという意味の 言うことを聞く!だったのよね

でも もともと 私は 規格外で どうにも こうにも

枠にはまり切れず 本来の自分が でてくるんですね

人の言うことを 聞けない思春期に (反抗期です)

だから ことごとく母の教育への期待に 答えられませんでした

悲しい思いも心配もさせたと思います

(それを自責の念に駆られた時期も長かったです・・・・)

でも 今なら わかるんです

母の 感情の代弁者のように 

感情を爆発させることも 大声で泣くことも

父へ反抗したことも 

母への 思いだったことに

お母さん 我慢しなくていいよ

お母さん 感情を出していいんだよって

嫌なこと しなくていい

幸せになってって

楽しんでほしい 笑顔でいてほしい

女性であることを 恥じないで!って

おしゃれして 楽しんでよ!って

身体を張って 伝えてた思春期の私が見えるんですよね

女性の体は 我慢をためやすくなってる

だから 病気になるまで 自分の抑圧に気づかなかったりする

だけど 病気になることは 転機になるのですね

身体からのサインなのです

病気は 才能にも つながる大切なメッセージなんです

母は 何度も病気になったけど

そのサインに気づいて 自分を大切にするということ

自分を生きるということが 出来なかったから

私が その思いを 引き継いでいることもある

その母を 見て育った私も やっぱり 33歳の時に

子宮がんになるわけですが

それが サインになって

自分を大切に生きるようになった

才能にも 生まれてきた使命も 思い出す気っかけにもなったのです

(数秘33の人は、33歳の時に大きな転機があることが多い)

ご飯を 食べられる幸せ

足があるから歩ける幸せ

お風呂に入って ゆっくり眠れる幸せ

太陽や自然を見ているだけで 幸せな感謝が湧きあがってくる

そんな生活も 自分自身の病気の体験から

得られたことだと思っています

そして

母を代表する「女性の抑圧からの解放」というテーマを

使命として 生まれてきてるんだと感じています

死ぬ間際に どういう亡くなり方をしたのか?

それも 残された人たちへのメッセージだと思う

父は 123 という数字のメッセージを残し

母は 111という数字のメッセージを 残していきました

同じ年に ふたりとも 旅立ちましたが

二人とも相次いで亡くなるということは

二人が 同じ課題を クリアしたということ

もう一人(夫が妻)が 残されるのは

残された一人には まだクリアするテーマがあるということ

1月23日と 10月11日が 命日

二人は 同じく 人生をクリアして あの世に帰っていったのですが

私に このテーマを 提示して 思い出させるためと

思えて 仕方がないのです。

それが 数字からのサインとなっている「123」と「111」

本当の私の人生のスタートという意味です

「女性の自立」もテーマとなってます

離婚して 私のシングルマザーの生活を 支えてくれていた両親が

私の仕事 住む場所 子どもたちとの生活が 2年たって軌道に乗った時

それを 見届けるようにして 二人とも 相次いで亡くなってるのです

正直言って 頼りにしてましたし 甘えてました

なので 両親は これ以上 私たちがいたら

私の 本当の自立への妨げになるから 相ついで旅立った

これは 「最期の 両親からの 真の愛」なのだと気づきました。

そして それを 予知として 思い出した自分もいるのです

決めてきたことを 思い出していく感覚

両親の死後に 魂の感覚を思い出し

小さい頃から見え感じていた 見えない世界が

また封印を解かれるように戻ってきたのです

点と 点が つながり 見えてくる

今までの 体験からの 答え合わせのように

魂が目覚める 霊性を思い出す体験が 続いたのです。

そこから導かれるように セラピスト・ヒーラーになり

どんどんスピリチュアルな世界への学びと体験がはじまりました。

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人それぞれ 唯一無二の経験をしていると思うのです

同じ経験を している人は いない

だから 自分の 人生の 体験を 振り返った時

なんとなく見えてくるものが あるのではないでしょうか

そこから 何を感じ取るのか? 何を思うのか?

どう 選択していくのか?は 自分次第

何を選んでも いい

ただ せっかく生まれてきたのだから

我慢ではなく 自分の生命力である望みに正直になって

自分が幸せに思う選択を 一瞬一瞬していければ

幸せにしかならないのだと 思うのです

身体の声を聴いて 

そのために 言いたいことを我慢せず

伝えること・・・・表現すること

私さえ我慢すれば・・・という自己犠牲は

だれも幸せにはならないから

まず 女性である自分が幸せであることを

そのためにも

自分を 表現して 生きること

だと思うのです。

この地球で 魂の望みを表現して生きること

喜びの人生を この地上で 楽しんで生きること

愛する人と愛しあう人生を💛謳歌しましょう

今日もありがとうございます。

いつもありがとうございます。


最後までお読みいただいてありがとうございます。



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