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午睡峠

 若葉の青い匂いが、わたしの頬を撫でました。美術館前の並木通りは初夏の風に包まれていて、灰色のアスファルトに跳ね返された白い陽が、からりとした空気をぼんやりと照らしていました。この前までの寒さが嘘のように腫れ切って、身体中が、マフラーやセーターで包まれたみたいに暖かいのでした。

 木陰のテーブルウェアに腰掛けていたわたしは、母がすっかり眠り切っているのにいいかげん飽きていました。椅子の上で体をもぞもぞ動かしたり、訳もなく足をぶらぶらさせたり、ティーカップに星屑のようにくっついたザラメだの、皿に残ったクッキーのかけらだのを指でつまんで、少しずつ口に入れたりしていました。宿題はたいして進まず、さっきから歩道を行ったり来たりする市民や赤黄青の車たちが、しらんだ景色に、くらくらするような極彩色を加えたり引いたりしているのを眺めているばかりでした。

「ねえ、そろそろ行こうよ」

わたしは、そう言いました。母はそれに答えるように、ゆっくりと目を開けました。

「まだ、いいでしょう。せっかくのお休みだし。それに、あんまり歩きすぎたから、お母さんは疲れたの」
「もう休んだじゃん」

 わたしはしばらく黙って、そのままでいました。母は目をつむって、また寝てしまいそうでしたが、やがて小さくため息をつき、夢見るような声でこう言いました。

「ほら……これでもう一杯、コーヒーでも頼んできなさい」

 そういって、母はわたしの手に銀貨を一枚、滑り込ませました。

「お母さんはここで休んでるから、ね」

 母は銀貨をわたしの手に握らせると、さっさと行ってきなさいと言うように、わたしの背中をとんとんと叩きました。わたしは銀貨をポケットにしまうと、しぶしぶ立ち上がって、カフェのカウンターから伸びた、あきれるほど長い列の最後尾に並びにいきました。

 太陽が、ぽかぽかと体を温めました。思い切ってシャツ一枚で外に飛び出し、草はらだの、サラダボウルの底を流れる小川だのを飛び回って、笑いながら転げ回れば、どんなにいいだろうと思いました。でも、そんなことができるくらいなら、最初からこんな風に退屈しているはずはありません。

 わたしは灰色の人々が蚕の糸のように延々と続く列にうんざりして、大きな声で画面片手に笑う市民たちにうんざりして、わたしの肌を覆い隠す、よそ行きの水兵服にうんざりしました。そして、何をするでもなく列に紛れ込んで、ぼんやりと待っている自分自身にもうんざりしていたのでした。

「こうなったら、一番高いものを買ってやる」

そういう意地悪な考えで、ブラックボードに描かれた桃色のパフェやパステルカラーのジュースの絵を、憤然としてにらみ付けていました。

 なにかが「ふーー」と息を吹いたような、柔らかい音がしました。ふと気配を感じて顔を上げると、列に並んだわたし前に、ぼんやりとした人影があるのでした。水面に映った影のような、ゆらゆらとした頼りない立ち姿。白い日傘に、薄藍色の影。おまけに、いくらがんばっても焦点があわず、まるでさっき美術館で見たような、ふわふわした印象派の油彩画の感じなのです。

 わたしは、その人影をもっとよく見ようと、目をこらしました。すると、その人影はすうと静かに振り向いて、わたしを見つめ返しました。それは、女の人でした。

 日傘を傾けて、彼女はわたしをじっと見つめました。わたしはその人が、母より少し若くて、けれども表情は祖母より年上に見えることに気がつきました。その人はとてもほっそりとした人でした。そして、本当に体がすけているみたいに見えるのはどうしてだろうとわたしが思ったときです。その女の人が、わたしに小さく会釈をしたのです。

「……もしもし。少し、よろしいですか?」

 わたしは、思わず同じように会釈して、「はい」と小さくつぶやきました。なぜだか手のひらが、じんわり緊張するのでした。

「わたくしの分のコーヒーも、これで買ってくれないかしら? あんまり並んでいるものですから、すこし、つかれてしまって」

 女の人は、かすかな微笑みを浮かべました。その声は本当にふわふわとして、なんだかお風呂場の中で聞くはな唄みたいでした。とても間延びして聞こえて、じっと気を入れないとどんな言葉なのか分からなくなってしまいそうなのでした。

「……えっと」
「金貨一枚でいいかしら? あまったら、ケーキでもクッキーでも、あなたの好きな物を頼んでください」
「あの……わかりました」

 その人は、金貨をわたしに握らせました。それは手の中のほんの一瞬のあいだに消えてしまいそうな重さでした。わたしは女の人の不思議な雰囲気にすっかり飲まれてしまって、こっくりうなずきました。

列から抜け出たその女の人は、わたしの横に並ぶと日傘を傾けて、美術館の方を見上げました。

「……いいお天気ね」

 彼女は小さくつぶやきながら、かすかにあくびしました。すると、わたしの前に並んでいた一同も、同じようにあくびして、ひとり、またひとりと列を抜けていくのでした。あれよあれよという間に列は短くなっていき、わたしはカウンターの前の最後の人になっていました。

「ご注文は?」
「えっと、コーヒーを二つと……チーズケーキを一つ」

 白くてツルツルしたマグカップが二つと、プリッとしたチーズケーキが、わたしの前に置かれた時です。わたしがふと横を見ると、さっきの女の人がふんわり立っているのでした。

 彼女といっしょに木陰のテーブルに腰掛けたわたしは、チーズケーキとブラックコーヒーを前にしてぽかんと口をあけました。あんまりきれいな人でしたから、なんだかびっくりして、胸がドキドキするのでした。金色のフォークを持って固まったわたしを見ながら、その人はにっこり笑いました。

「お母さまと一緒に来たのですね」
「はい。あの、美術館に絵を見に」
「そうですか。お母さまは、お元気?」
「……さっきから寝てばっかりで、つまんない」
「……まあ。こんなにかわいらしいお嬢さんを放っておくなんて、あんまりですね」

 その人は少しおどけた口調でそう言うと、小さく上品な笑い声をあげました。わたしはどう返事をしていいか分からずに、ただチーズケーキをつついていました。さっきまで退屈していたのに、こんな変な気持ちになっている自分が不思議でした。けれど、彼女がかもしだす雰囲気は、親戚のお姉さんのようにどこか懐かしいような気がして、なんだか落ち着くのでした。

 するとその時、女の人がひょいとわたしの顔をのぞきこんできました。彼女の瞳は本当に透き通っていて、わたしは思わずハッと息をのみました。すこし茶色がかった黒目の中は、幾千もの光をばら撒く星屑のような輝きで満ちていて、わたしは思わずその空間に落っこちてしまいそうになったのです。自分の心の奥まですっかり見透かされてしまっているような気持ちになって、あわてて目をそらしました。

「たいくつなら、すこし、お出かけしませんか?」
「え? でも、お母さんが」
「ほんのちょっとだけですよ。いまならまだ、眠っていらっしゃるし」

 女の人はにっこり笑って立ち上がると、わたしに手を差し出しました。わたしはもうすっかり困り果ててしまって、きょろきょろとあたりを見回しました。すると、まわりのテーブルで談笑していた市民たちも、すっかり午睡に浸っているのでした。動くものは、風と木立ばかり。街路を歩く人たちも、ベンチやなんかで静かに寝息を立てているばかりで、車の運転士も、電線に止まった鳥たちも、誰も彼もが、すやすやと眠っているのでした。

「さあ、行きましょう」

 女の人は、わたしの手をとりました。わたしはもう、何がなんだか分からなくなってしまって、ただつながれた手から流れ込んでくる不思議なあたたかさに心を任せました。そしてそのまま日傘をさして、美術館前の大通りをゆっくりと歩き出したのです。

「あの……どこに行くんですか?」

わたしがそう聞くと、彼女はふんわりと笑いました。その笑顔はおひさまのように優しくって、わたしは思わず照れて目をそらしました。

「ついてからのお楽しみです」

 「ふーー」とため息をつくような風が吹きました。わたしは思わず帽子を押さえて、その甘く眠たげな風を吸い込みました。それは、まるで時が止まったような世界の中で、ただひとつ息をする音のようでした。

「あの……あなたは、だれなんですか?」

わたしは、思い切ってそう尋ねました。すると彼女は日傘をくるくる回しながら、またふんわりと笑って答えました。

「あなたが思っている通りですよ」

 からだがふわっと宙に浮いたかと思うと、バスの中でした。横長の座席に腰掛けていて、吊り革があっちこっちへ揺れるのを見つめているのでした。バスには、わたしたちの他には誰も乗っておらず、がらんとしていました。

 窓の外は、ぷっかり浮かぶ白雲と電信線ばかりで、麦やとうもろこしなんかの畑が順々に通り過ぎていきました。

「ここはどこですか?」

赤い看板の停留所で降りると、わたしは、小声でそう尋ねました。

「ここは……丘の街ですよ」

 そう言われると、どこからか吹き込んだ風がふわりと前髪をゆらしていきました。鼻をくすぐる日だまりの匂いは、春のようにやわらくてどこか懐かしいのでした。

「サンドイッチを、一つくれないかしら?」
「ええ、そちらのお嬢さんの分も?」
「もちろん」

 ひんやり冷たい石のカウンターに、白いプレートがコトリとおかれました。パリッとしたきゅうりと甘いトマトの挟まれた、いくまいかのサンドイッチでした。

「お代は?」
「いらないわ。もうずいぶん払ってもらいましたから」

 女の人は、いたずらっぽく笑いました。わたしはなんだかおかしくってクスクスと笑いながら、薄墨色の影からサンドイッチを受け取りました。そして、女の人と一緒に日傘をさして、ゆっくりと丘を登っていきました。

 メインストリートのじゃり道は、静かな影であふれていました。くっついたり離れたり、大きくなったり小さくなったりする影が、白かったり黄色かったりするドレスやスーツであったりを歩き回って、ふわふわした子供の影が、あちこちで走り回ったり、おしゃまに立ちすくんでいたりするのでした。丘のてっぺんに登った時です。わたしは、思わず息をのみ込みました。それは、本当に夢のようにきれいな街だったのでした。

「ここはね、時間が止まった場所なのよ」

女の人はそう言うと、日傘をたたんで石の上に腰掛けて、サンドイッチをゆっくり口に入れました。

「だから……こんなに静かなの?」

 わたしがそう聞くと、彼女は小さくうなずきました。そして、遠くの方を指差しました。赤い屋根瓦がつらなった小さな町と、その向こうに見える松林と、青々した海でした。

「それに、この丘はね、きっとこの街がはじまった時からあるの。このサンドイッチも」
「……あなたは、この町に住んでるの?」
「ええ。ずっと昔から」

そう言うと彼女はにっこり笑いました。なんだか、その笑顔がどこかさびしそうに見えて、わたしは胸をぎゅっとつかまれたような気がしました。

「ねえ……ここはどこなんですか?」

わたしがそう聞くと、女の人はサンドイッチをお皿の上に戻して言いました。

「ずっとずっと遠いところ。バスに乗って、何年もかかるところ。それでも、すぐ近くにあるところ。そう、行こうと思えば一歩で行けてしまう。そんな遠い場所よ」
「どういう意味?」
「あなたがもっと大きくなったら、きっと分かるわ」

 彼女はそう言うと、立ち上がって丘のてっぺんをゆっくりと歩き始めました。白い日傘が、風をはらんでふわりふわりと揺れました。背の高い草が、時々ごおっと渦を巻いて、激しく波打ちました。わたしは、その背中から目を離すことができませんでした。

「……へんなの」
「何がですか?」

 女の人は振り返りました。なぜだか、彼女といっしょにいられる時間に限りがあって、それをわたしが知っていて、でもその理由を彼女は知らないような気がしました。

「なんだか、変な気持ちなんです」

 わたしはそう言うと、白い水平帽をぎゅっと被りました。青いスカーフが、すきっとした風に揺れました。ソーダ水みたいに透き通った風が、シャツの中を吹き抜けていきました。

「変な気持ち?」

わたしは、ゆっくりうなずきました。

「……なぜだか、あなたにもう会えないような気がして」

 彼女はまたにっこり笑うと、わたしに手を差し出しました。白い手袋ごしにつないだ手はほんわりと柔らかくて、すこしだけしっとりと湿っていました。そのまま向かい合って立っていると、さっき予感した通りの気配が、向こうの方から近づいてくるのがわかりました。

「あ……」

 それは、焦点の合わない、黒い影でした。盲点の端についた、黒い滲みでした。けれども、それは確かに意識を持っていて、ゆらゆらとあっちへ行ったりこっちへ行ったりしながら、確かにこちらに近づいてくるのでした。

 その影は、もう丘の上まで登ってきていて、ゆらゆらと立っていたのでした。わたしはなんだか急にこわくなって、思わず目を閉じました。するとふと耳の中で声がしたのです。

『もうお帰り』

 どこかで聞いたことのあるような声だと思って目を開くと、さっきの女の人の姿はどこにもありませんでした。ただ視界いっぱいに広がった黒い影がわたしの体をすり抜けて行って、そして消えてしまったのです。

「さあ! 早く走って! バス停まで」

 どこからか、女の人の声が響きました。黒い影が、「フーー」と息を吹いた時、思わず日傘を放り投げて、丘をかけ下りました。白い風の中をどこまでも走っていったのです。ソーダ水みたいに透き通った風が、どんどんシャツの中を通り過ぎていきました。とても冷たくって気持ちがいいはずなのに、なぜだかわたしの目からは涙がぽろぽろこぼれて止まりませんでした。そのわけはよくわかっていたのですけれども、それでも走るのをやめることができませんでした。そして、あのバス停にたどり着いた時、地面がホッカリ落ち込んで、深く暗い地面に飲み込まれてしまったような気がしました。

 暗い、幾千もの光をばら撒く星屑の散らばった、あの瞳のような地面の中に。

 気がつくと、わたしは木陰のテーブルに座っていました。目の前には、冷めかけたコーヒーと、食べかけのチーズケーキ。母は、まだ眠っていました。太陽は少し傾き、午後の穏やかな光が並木道を照らしていました。

 全ては夢だったのだろうか?そう思いました。しかし、手のひらには、かすかな湿り気が残っていました。そして、胸の奥には、言いようのない寂しさが広がっていました。それは、大切な何かを失ってしまったような、そんな寂しさでした。

 母が目を覚まし、「どこに行っていたの?」と聞きました。わたしは、「ちょっと散歩に」と答えました。それ以上のことは、何も言えませんでした。

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