二十三時の都会人
23時のドーナツ店が、ぼくは好きだ。人もまばらになった地下通りのドーナツ店だったら、もっと好きだ。地上のざわざわしたネオンサインや、ギラギラ目玉のヘッドライトから遠く離れて、店の奥に座っていると、まるでここだけ近未来なんじゃないかという気がするのだ。
ぼくは都会人ふうにオールドファッションを頼んで、おかわり自由のコーヒーを流し込む。80年代の英語の唄をきいて、めんどうくさい数学の問題をこねくりまわして、それに飽きたら赤いマグカップをスケッチする。23時のドーナツ店は、ぼくの書斎だ。
都会ふうな表情で地下通りをぼんやりながめる。地下通りを歩く人は、たいていスーツを着た勤め人だ。地下鉄に乗るのだろう。ぼくは、ドーナツをかじりながら、いつもの癖で、まるで自分が都会人みたいな気持ちで、彼らの人生について思いをめぐらせる。
カラス色の人波の中で、ぼくは見知った顔を見つける。彼もぼくに気がつく。ぼくはどうしようかなと思って、「やあ」とガラス越しに都会ふうなあいさつをする。
「こんなところにいたのか。おまえ、本当に文化祭に行かなくてよかったのか?」
「ぼくは都会人だからね」
「意味わからんことを言うな。みんな探していたぞ。当番がいないってさ」
友達はちょっと怒っていた様子だった。ぼくは怒っている人が近くにいると嫌だから、彼にドーナツを一つおごった。クリスピークリーム。
「片付けぐらい手伝えよ。おまえがいなくなると、作業がぜんぜん進まなくなるんだよ」
「でも……」
ぼくは肩をすくめる。
「そんなに楽しいものでもないだろ? 文化祭なんて」
「まあな……。だけどさ……」
都会的な沈黙がただよった。カウンターに隣り合って座るぐらい、都会を感じることはない。アンニュイ、眠気、秋、地下街。無色透明で海岸の夜風みたいにカラッとした都会の空気が満ちた。たぶん、天井のエアコンが気をつかってくれたのだろう。ぼくはエアコンに感謝した。
「楽しくないことも……思い出にはなるだろ?」
「うーん。そう?」
「さあな。きっと、三十年後に答え合わせしないと、わからんだろうな」
「三十年後か」
「遠い未来だな」
「火星基地ができているかも」
「そうかもな」
友達は立ち上がった。「おれ、眠いから帰るわ」と言って。ぼくと彼の人生が交差した一瞬だった。ドーナツをかじって、ちょっとセンチメンタルになった時間。ぼくにはわからなかったけれども、彼みたいな人々にとっては、きっと文化祭の準備とか文化祭とか文化祭の片付けとかが重要なのだろう。そういうことが人生の彩りになるのだ。さっきまで文化祭の後のカラオケに行っていたんだ。たぶん。
「じゃあ、またね」
「おう。元気でな」
友達は、地下通りの人波に紛れていった。ぼくは、「またね」と言うとき、なんだかちょっと寂しくなるなと思った。でも、寂しいなんて感じては、都会ふうじゃないなと思い、ぼくはドーナツをもうひとくちかじって、スケッチを始めた。23時のドーナツ店は、永遠の都会だった。
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