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時計店での憂鬱

「時計が壊れたのなら、『月世界』に行くといい。あそこは、すごく安く直してくれるから」

 ルームメイトは、僕の銀時計を指差し、言いました。入学前、父からもらったのですが、先日針の音がしないことに気がついたのです。駅前百貨店の時計屋は煌びやかですが、とても僕のお小遣いでは修理代を払えません。安く治せるのなら、それに越したことはありません。

「しかし、気をつけたまえ。あの店は、神出鬼没だ。どの道にあるのか、いつやっているのか、誰も知らない。ただ、丘の下の、川港のある旧市街のどこかにあるとしかわからない。たどり着いたら、幸運だと思わなくては」
「でも、時計が直るのなら」
「運が悪いと、帰ってこられないかも。気をつけな」

僕はゴクリと生唾を飲み込みました。


 学課が全て終わった後、ポケットに壊れた時計を入れて、夕方の坂を下りました。坂を下がるたびに秋の肌寒さは増していき、もう一枚上着を着てくればよかったと後悔しました。運河に出て蒸気船に乗れば、旧市街はもうすぐです。丘の上とはなんと違うことでしょう。煤けた建物が隙間もなく並んで、お化けみたいに整列しているのが、船の上から一望できるのです。

「ああ、あの店か。確か、消火栓の横を曲がれば、あったはずだよ。まだそこにあればね」

蒸気船の船長さんが、簡単な地図を描いてくれました。僕はお礼もそこそこに、狭い市場を抜けて、植木鉢が並ぶ路地裏に入って行きました。

 
 街の騒がしさがすっかり消えてしまうまで歩くと、運河のせせらぎが近くで聞こえるようになりました。小舟が二つ通れるかどうかというぐらいの幅で、地さな太鼓橋がかかっていました。その橋のたもとに、『月世界』はありました。ショーウィンドウを覗いても店内は暗く、旧式のランプだけが青い光をポッポと揺らしていました。長いまつ毛のお月様が描かれた看板が戸口にかかっていましたが、薄暗い街灯だけの路次でみると、なんとも不気味でした。

「誰かいませんか」

 僕は勇気を振り絞って、扉を開けました。カランコロンという真鍮ベルの音がします。中は案外明るくて、ランプの青白い光に満ちていました。壁のあちこちに時計がかかっていて、コチコチと不気味な音を立てていました。ノートやなんかも売っているらしく、黄色い紙の甘い匂いやペン先の銀色の輝きが、あたりに満ちていました。

「すみません」

 僕はもう一度呼びかけます。奥でチリンチリンとベルが二度鳴って、黒いオーバーを着た男の人がぬっと出てきました。どうやら、店の奥にいたらしいのです。部屋の中なのに黒い帽子をかぶっていて、顔に濃い影がかかっていました。

「時計の……修理をお願いしに来ました」

 僕が壊れた銀時計を見せると、男の人はむっつりしたまま、ヒョイっと時計を取り上げました。蓋を開けたり閉じたり、ぜんまいを巻いたりして、手慣れた様子で色々試していました。ですが、裏蓋に彫られた三日月を手でなぞると、急に顔を曇らせました。そして、静かに蓋を閉じると、木製のカウンターにコトリとおきました。

「これを、修理するのですか」
「……ええ」

 店主は腕を組んで、ふうとため息をつくと、カウンターのスツールに腰掛けました。いく分かじっと首を下げたかと思うと、何事かをぶつぶつ呟いて、静かに十時を切りました。ずっと続くかのように思われた沈黙が、店内の時計たちによって刻まれました。ピンと空気が張り詰め、自分の呼吸がヒュウヒュウと耳元で聞こえるかのような気分がしました。自転車が一台、黄色いライトを光らせながら、ショーウィンドウの外を通り過ぎました。

「……もし、お客さんがこの時計を直すというのなら、喜んで承りましょう。お代は、銀貨一枚で結構です」

 銀貨一枚! 他の店が、平気で十枚以上を取ることを知っていたので、僕は驚きました。

「しかしながら、もしお客さんが、この時計を売ってくださるのでしたら。わたくしは金貨百枚、いや、最も大きな金剛石のかけら一つを渡してしまっても惜しくありません。どうか、お考えを!」

その時、店中の時計がいっぺんに、夜七時を告げる時報を響かせました。


「売って仕舞えばいいじゃないか」

ルームメイトが、意地悪そうに言いました。

「ただの時計だろう? 金貨四枚でもあれば、ずっと良い時計が買えるさ」
「でも、これは父からもらったものだし、それは元を辿れば祖父や曽祖父の代にまでさかのぼることができるんだ。そんなに昔からあるものを、そう簡単には売れないよ」
「家族の絆だかなんだかで、がんじがらめになった時計なんて、ぼくは使いたかないね。時計なんて、その時を刻んでさえいられればいいんだ」
「まあ、そうかもしれないけど……」

僕は口ごもってしまいました。でも確かに、ルームメイトの言うとおりかもしれません。愛着が湧くと手放したくなくなるから、だから売れないのかもしれません。

「よく考えてみればいい」

ルームメイトは続けました。

「その時計は別に高級なものじゃない。妙な歴史を担いでしまっているだけだ。両親の形見の時計を、借金の質に出そうとした友達がいたよ。随分安かったんだってさ。もし僕が君の立場だったら、金貨一枚でも、時計を売ったかもしれない。まあ、本当の値段は、そんなにないだろうけど」
「金貨一枚の価値はあるんだ!」

僕はムキになって言い返します。ルームメイトは肩をすくめて、帽子の鍔で顔を隠しました。

「そうかい? それは失礼」

彼の態度があまりに馬鹿にしているようで腹が立ったので、僕は布団を被って眠ってしまいました。


 ただ、驚くばかりでした。昨日の夜は確かにあった『月世界』が、今は影も形もなく、ただの寂しい空き商店となっていました。神出鬼没とはこのことだろうか。僕は唖然として立ち尽くしてしまいました。ポケットの時計はまだ決心のつかないままでいました。肩透かしを食らった気がして、どうすれば良いかわからず、ただ市街の夜市をぐるぐると回ることしかできませんでした。

 月祭りが近いようで、店には飴色の皮をした月餅や三日月のピンバッジが並び、色つきの硝子で作られたボンボニエールやペーパーウェイトが、ランプの黄色を浴びて鈍く光っていました。僕は財布を持ってこなかったことを後悔しました。色とりどりの飴玉が電灯の元で輝いている様子や、店先に吊るされたランタンや、通りで思い思いに踊る人々の影が恨めしく思えました。

 棚にずらりと並んだ虫こぶインクの瓶を眺めていると、金ペンの隣に小さな砂時計が置いてあるのに気が付きました。灰色の細かい砂が入っていて、いつまでも眺めていられます。僕はつい、砂時計を買いました。

「おいくらですか」
「銅貨三枚です」

 それでポケットには、銀貨が二枚と銅貨が三十七枚になりました。しかし、『月世界』は見つかる気配もなく、僕は途方にくれてしまいました。ポケットの中の銀時計は、まだ迷っています。もし両親に売ったなどと言ったら、残念がるだろうか? そんな思いが頭をよぎって、胸がチクリと痛みました。

「あれ、君も買い物に来たの?」

 天文部の友人とばったり会ったのは、その時です。彼は望遠鏡を買ったらしく、重たい紙袋をほくほくと持っていました。なんだかホッとして、彼と天体の話や星座にまつわる神話、月の石について話し合いました。

「それでさ、月には月世界人がいるかもしれないんだよ。ほら、映画でもよくあるだろう。月世界人は王国を作っていて、そこの学者が地球を眺めているかもしれない」
「それは素敵だね。でもさ、月には空気がないじゃないの?」
「ばかだなあ。地下の洞窟にあるはずさ。谷に溜まっているんだよ」
「それにしても、月世界人にはどんな暮らしをしているのだろう」
「きっと、三日月型の船に乗ってやってくるんだ。彼らは高度な文明を築いてるはずだから」

 友人と分かれた後も僕はまだ迷っていました。店がどこにあったのかなんて見当もつきません。でも、もしかしたらもう一度出会えるかもしれないという期待を捨てることができませんでした。僕は未練がましく店を探しました。

 いつしか市の外れまで来ていて、橋のたもとに座って考え込みました。あの店は本当にあったのかしら。ポケットの中の銀時計はずっと動かず、ただランプの黄色い光を鈍く反射しています。『月世界』の暗いショーウィンドウと、三日月に彫られた不思議な模様が、ぼんやりと脳裏に浮かんでは消えていきました。

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