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華麗なるミスタードーナツ

 朝起きるのが苦手だ。土曜日は特にそうだ。秋雨けぶる休みの日、わたしはじっとりした布団から、ガラスにくっつく水滴を眺めて横になっていた。白い雲のせいで、頭がつーんとなるまで。時計はすっかりお昼である。

 起きるのが苦手というのは、目を覚ますのが苦手ということではない。布団から起き上がるのが、苦手なのだ。夢の名残りのような不確かな足取りで洗面所まで歩いて、冷たい水で顔を洗う。わたしは、こうやって無理やり体の電源を入れる必要がある。

 姿見の中の自分は、なんともぼやっとした姿をしていた。髪はボサボサだし、そろそろお昼になるのにパジャマのままである。これではいかんと、まとめ買いしたユニクロの白いシャツと、これまたユニクロでまとめて買った紺色のプリーツスカートを着た。ユニクロの靴下に、ユニクロのハンカチ、ユニクロの下着。ユニクロの人民服を装着して、クリニカで歯を磨き、寝ぐせを整えてちょっとお化粧、ポケットに鼻セレブを突っ込めば、ぱっと見は健全な市民の完成である。

 狭いベランダの向こうは、そびえたつタワーマンションである。いったい何がどうなれば、あそこに住めるようになるのだろうか。ずぶ濡れになった洗濯物を取り込みつつ、空の民にあっかんべーをした。誰がどこに住もうが、自分の生活は守らなければならない。ネットフリックスを見ていては、人生を無駄にしてしまう。スマホを捨て、街へ出なければならない。

「いってきます!」

 ファミマのビニール傘をさして、わたしは秋雨の街へと繰り出した。

 湿気である。白い雲である。ボツボツと降り頻る雨は、わたしのおでこやうなじや横腹から、次々と湿気を導き入れた。雨のせいか、バスロータリーの人はまばらで、ペレストリアンデッキを歩く人も急ぎ足だった。孤独な群衆はアトレだのロフトだのに吸い込まれていくらしく、ぐうぐうとなるお腹を抱えながら、わたしは人波をサーフィンするはめにおちいった。

「早く、ゆうがな朝食を食べないと!」

 わたしは定期券でエキナカに入ると、未来派を感じるエスカレーターを駆け上がって、お目当てのミスタードーナツに滑り込んだ。扉を開ければ、ふあーんと甘い香りに包まれた。さっきまでの殺伐とした群衆は消え、安らぎに満ちた空気がわたしを包んだ。いつものように、ゆうがにオールドファッションとポンデリングをトレーに乗せると、かわいいおねいさんのレジに並んだ。

「おはようございます。店内でお召し上がりですか?」

おねいさんが、わたしに笑いかけた。わたしは、はあはあいと間抜けに返事した。

「こちらでお召し上がりですか?」
「はい!」

 思わず軍隊のように答えた。おねいさんはちょっと驚いたようだったが、すぐにトレイを渡してくれた。お目当てのホットコーヒーは、赤いマグになみなみ注がれてホクホクと湯気をあげていた。

 中二階のミスタードーナツで、外の景色を見ながらドーナツをかじるぐらい、都会を感じることはない。真っ赤なマグが隣にあれば、なおさらだ。

「わたし、都会の人間だ」

 マグを両手で包んだ。まだ熱いコーヒーをふうふう吹いて、ひとくちふたくち飲む。コーヒーは苦手だけど、香りは好きだ。それに、おかわり自由なのだ。カウンターの向こうは、水滴のついた窓ガラスである。白、透明、赤、青、黄の丸い傘たちが、下界の道路をぐるぐる歩き回るのが、ずっと見えていた。この浮遊感が心地よいのだ。ガラスとプラスチックとアルミニウムの店内も、雨の景色のおかげで、ソール・ライターの写真のようなNewYorkに見えてくる。

「これが都会だ……」

 わたしの指は、オールドファッションの油分でテカテカ光っている。粉砂糖が落ちないように気をつけながら、ポンデリングをかじった。パリッとした外側と中側の生地の食感の差が楽しい一品で、わたしはこの単純な味に夢中だ。サン=テグジュペリの「夜間飛行」を読みながら、もぐもぐもぐやってたら、あっという間にひとつめを胃に収めてしまった。名残惜しく指についた砂糖を舐めていると、隣の席に誰かが座った。黒い帽子に黒い外套の人影だった。

「こんな季節に、暑そうだなあ」

 TOEICの勉強をするふりをしながら、チラッと横目で見ると、わたしの関心はその人影にもっととられてしまうことになった。そいつの顔に、目鼻口はなかった。耳さえもなかった。中折れ帽の下は半透明の赤いリンゴで、もぎ取られたばかりみたいにみずみずしく光っていた。そいつはわたしと同じようにマグを持っていて、エンジェルクリームをヒョイっと見えない口で食べると、すすっとコーヒーを飲んだ。

 わたしは、心臓が口からうえっと出てしまいそうなぐらい驚いて、慌てて体勢を整えた。都会人風のアンニュイな表情を浮かべ、赤いマグに口をつけた。

「あちっ! あちっ!」
「おいおい、落ち着けよ」
「しゃべった!」
「喋るぐらい、普通だろ」

半透明のリンゴはわたしの言葉をさえぎった。

「あんた、俺のことが見えるんだな?」
「……見たら呪われるの?」
「いや、そんな低俗なことはしないさ。俺は紳士だからな。しっかりドーナツを買ってお店に入った」

 わたしはマグで顔を隠してリンゴをチラ見した。リンゴはしばらくマグのなかを見つめていた。コーヒーが少なくなっていたから、たぶんおかわりをもらおうかどうしようか迷っていたのだろう。ミスタードーナツのコーヒーはおかわり自由なのがありがたい。
 雨はさっきから変わらず降り続いていた。カウンターはどこまでも都会的で、白いドーナツ皿は清潔そのものだ。隣にリンゴがいようが、何も変わらない。土曜日のゆうがなお昼だった。

「なんでリンゴなの? なんでその帽子なの? なんでコートなの?」
「本当に俺のことを覚えていないんだな。この都会人め。あんたこそ、なんでユニクロなんだよ。俺は悲しい。時代はジャズ・エイジだっていうのに、なんだってまたそんな野暮ったい格好してるんだ」
「わたしはユニクロを愛してるの。清潔なの。好きなの! そして……安いの」

 その時、はっと記憶が蘇った。前もこんな会話をした気がするのだ。リンゴはジャズエイジとか言って、わたしはユニクロを愛好していた……。

「思い出したか? 俺は紳士だからな。無理強いはしないが、その格好はいささか流行遅れだぜ」
「もしかして、シナノくん? 部活で一緒だった……」
「やっと思い出したか」

 シナノくんはリンゴを煌めかせた。その輝きが、記憶の回路を刺激した。シナノくんは、同じ高校のバド部の男の子だった。彼はかなりの腕前で、関東大会ではいつもいいところまで進む選手だった。わたしはとくにバドミントンに熱心に取り組んだわけではないけれど、同じ部活だったのでまあまあ仲が良かったのだ。記憶は遠い彼方にあるけれど、彼が大変な変わり者であったことはよく覚えていた。

「思い出したけど……でもなんでリンゴなの?」
「ジャズは死んだ。俺は生まれ変わった」
「はあ……」
「俺は、個人を捨てたのさ」

 リンゴがカウンターに手をつくと、窓の外はシャンゼリゼ通りだった。ガラスの水滴でゆらゆらと、テールランプがゆらめいた。あれよあれよというまに、お店の人はリンゴになっていった。スマホを見ているリンゴ。新聞を読んでいるリンゴ。タトゥーの入ったリンゴ。ミスタードーナツの制服のリンゴ。スーツのリンゴ。子供のリンゴ。青リンゴ黄リンゴ。赤リンゴ緑リンゴ。すごく奇妙だったけれど、その風景はもうなんとも言えないぐらい都会的だった。

 シナノくんはわたしに、ポンデリングをよこした。わたしがこのお店でいつも選ぶのと同じものだ。わたしはそれを受け取って、食べた。シナノくんもポンデリングをかじった。リンゴの風景だった。わたしたちの周りだけが魚眼レンズで見たようにぎゅーっとまるまっていき、アインシュタインの歪んだ空間みたいに見えた。

「リンゴは奇妙だと思う?」
「思う。だって、普通の人間はリンゴになんかならない。ロフトに吸い込まれるか、スマホに吸い込まれるかするだけだから」
「あんたのスマホは、リンゴじゃないのか?」
「わたしのは……ロボット」
「あれも緑色だ。青リンゴに等しい」

 意味のない会話。カウンターに手をつくと、くるくる入れ替わる風景。さっきから明滅してばかりの蛍光灯。BGMのボッサノッヴァがぎゅーんと歪んで、お皿が波打ったり立方体になったりした。窓の外には、いつの間にか全く同じようなリンゴがそろっていた。ビニールの傘。スマホ。リンゴ。それで、ずらっと整列しているのだ。それが、雨の水滴で歪んだ窓のせいで、ぐにゃっと揺れていた。シナノくんは静かに笑っていた。

「都会は怖い場所だよな。みんな変わってしまう」
「シナノくんもね」
「今の君は、都会に飲まれてるね。ユニクロさん」
「あなたもそうね。コートなんか着て、アップルパイみたい」
「人は皆、変わる」
「時に果物にさえも」

 リンゴの彼はポンデリングを完食し、マグに残ったコーヒーを飲み干した。わたしが最後のひとくちを食べ終わるまで、シナノくんは赤いマグのなかを覗き込んでいた。やがてマグは空っぽになり、シナノくんの半透明の頭も晴れた。

「俺を思い出したということは、もうすぐ来るということだよ。それじゃあな! 都会の君よ」

 そう言うと、シナノくんはわたしの返事も待たずに去って行った。店内がすうっと元に戻った。さっきまでのざわざわが元に戻って、みんなの顔もリンゴじゃなくなった。わたしは急いでスマホを見ると、ちょうどアラームが鳴った。

「やっば! 帰らなくちゃ」

 ミスタードーナツを出ると、雨は小降りになっていた。傘も面倒になって、ずぶ濡れになりながら、鏡みたいな路面を走った。ドシン! 誰かにぶつかった。「すみません!」「いえいえ、大丈夫ですよ」相手のひとみに映ったわたしの顔は、真っ赤なリンゴみたいだった。

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