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親近感の九十九神

 薄曇りの日だった。べったりしつつもそろそろ肌寒くなってきた秋の風が、昔の運河跡を彩る緑道を揺らして、都営団地の灰色の壁を湿らした。どこにいく気も起こらないのに、どこか知らないところへ行きたいような気もして、でもやっぱりお金もないから近所でいいかな、なんてぐるぐると考えていた。洗濯物たちはベランダで揺れていたし、空は頭の奥がつーんとするぐらい白かった。

 ガラス窓に足の裏をくっつけると、ひんやりして気持ちい。ぼくは、間違えて買った大きすぎるTシャツのままで、ぼんやりフローリングに横たわっていた。音楽は聞き飽きたし、本も読み尽くした。描きかけの絵はMacBookのどこかのフォルダに転がっていってしまった。決めなくてはいけないことはいっぱいあったし、勉強することもあったけれど、なぜだか何もやる気が起きなかったのだ。

 鼻血が出そうなくらいぼーっとしていると、黒猫がぴょんとベランダに飛び降りてきた。干した布団の上で、前足を伸ばしてうーんと伸びをして、それからごろんと丸くなった。

「ひま人が増えた」

 ガラッとガラス窓を開けると、すうっとした空気が部屋に入り込んできて、髪の毛だのTシャツだのをさわさわと揺らした。黒猫は優秀なドローンみたいに顔を上げ、ぼくを見た。

「いいよ、寝てても。気にしないからさ」

 黒猫はまた丸くなったので、ぼくはベランダに寄りかかって、ずらずらと並ぶ団地たちをぼんやりと眺めた。このところ、ぼくはずっとこんな調子だ。何かしなくてはいけないことはたくさんある気がするのに、何もできないのだ。そのくせして、夜は深夜まで眠れない。頭の中を考え事がぐるぐると回るのだ。

「……君はいいよな。悩みなんてなさそうだし」

黒猫はぺろぺろと毛繕いをしてから、言った。

「あたしだって、あるさ。悩みぐらい」
「たとえば?」
「たとえば……そうだな、今日の夕飯はどうしようか、とか」
「なるほど。それは建設的な悩みだ」

 そうやって秋風に吹かれていると、錦糸町に行きたくなった。錦糸町! なんていい響きだろう。あの街の風に吹かれれば、何かいい考えが思い浮かぶかもしれない。ぼくは思い立つとすぐに準備をした。着替えて、髭を剃って、保険証を確認した。ガスの元栓を閉めて、戸締まりをチェックした。

「君も一緒に行く?」

黒猫は、にゃーんと鳴いた。まあそうだろうなと思って、そのまま一人で部屋を出た。


 なぜぼくが錦糸町を好むのか。それは、とても説明し難い。もちろん、東京には魅力的な街がたくさんある。新宿、池袋、渋谷、六本木。みなそれぞれに素敵だ。ぼくは東京に生まれてよかったと思うし、実家の窓から見える副都心のビルの明かりも好きだ。

 でもぼくは、錦糸町に来るとなぜだか少しほっとするのだ。この街は不思議な引力を持っている。どんなに遠くへきたつもりでも、必ずここに引き戻されてしまうような魔力があるのだ。バスターミナル。PARCOと丸井。少し古びた駅舎に、電話ボックス。数えきれない人、人、人。どこまでも続く飲み屋街。スカイツリー。まるでどこかの地方の中心都市のようであって、でもやっぱりここは東京で、ふとした瞬間に、ああ東京にいるのだなと思わせてくれる。

 ぼくはPARCOの無印に入って、一番安いコーヒーを頼んだ。錦糸町が一望できるカウンターがあるからだ。MacBookで絵を描いて、数学の問題に頭をひねった。大学で勉強して、絵を描いて、小説を書いて……でもきっと、それだけじゃ足りないのだ。ぼくはもっと大きなことをやろうとしているし、それは魔法なしじゃできそうもないことだ。でもぼくには魔法の才能がないのだから仕方がない。それに、錦糸町の街はどこまでも美しい。

 窓ガラスに映る自分と、そろそろ暗くなってきた駅前広場を見つめていると、隣の席に誰かが座った。ちらっと横目で見ると、やけに白い服をきていることがわかった。なんだろうと思っていると、その人はたっぷりのカモミール茶をすすっと飲んで、巻紙につけペンで何かを書き始めた。流れるような、不思議な字だった。

「どうかしましたか?」
「あ、いや、その……すみません。何を描いていらっしゃるのかなって、ちょっと気になって……」

 ぼくはその人を見た。目が合うと、その人はにっこりした。それからまた、ペンを走らせた。その人の書く字は、まるで魔法みたいに美しかった。

「今は死んでしまった川たちのことを書いているのです。あなたは知っているでしょう? このあたりは、いっぱい運河や川があったのに、ほとんど埋め立てられてしまいましたから」
「ええ、知っています。ぼくも、この辺に住んでいますから」
「私、東京の水がとても好きなんです。水が流れているところを見ているのが好きです。でも、埋め立てられてしまった。だからこうして絵を描いているのですよ。川たちそれぞれに取材して、彼らの言葉と記憶をまとめて、こうして残しているのです」

 その人はそう言ってにっこりした。ぼくはなんだか恥ずかしくなってうつむいてしまったけれど、その人の目はどこまでも優しかった。ぼくは勇気を出して顔を上げ、言った。

「ぼくも……東京は好きですけど……この街には少し悩んでいます」

その人は静かに言った。

「それはそうでしょう。つかみどころのない街です。でも、私はこの街がとても好きです。それはきっと、あなたがこの街に魔法をかけたからでしょう」
「ぼくが……魔法を?」
「ええ。あなたはきっと、世界を変えられる人なのですね。私もそう信じていますよ。だからこうして絵を描いているのです」

その人はそう言うとまたペンを走らせた。ぼくはその人の手元を見ながら、言った。

「……あの……もしよかったら、お名前を聞いてもいいですか?」

その人は顔を上げた。それからにっこりして言った。

「私の名前は……」

 その時、はっと気がついた。その人から、眩しい後光みたいな光があふれていたことに。酸素みたいに透き通った白の服は、どこまでも滑らかで、上等の赤靴が輝いていた。髪の毛は光って、目はキラキラと透き通っていた。天使とか神さまとか、そんな存在に思えた。ぼくはあわてて立ち上がった。

「あの……その……あなたは……」

その人はくすっと笑った。そうして立ち上がって、ぼくの目をまっすぐ見つめた。そして、ふっと消えてしまった。

「あ、待って!」

ぼくは思わず手を伸ばしたけれど、その手はむなしく空を切っただけだった。ぼくはしばらく呆然として立ちすくんでいたけれど、やがてまた椅子に座り込んだ。それから大きくため息をついた。

「……なんだったんだろ」

 でもなんだかとても幸せな気持ちだった。ぼくはその人から受け取ったものをしっかりと握りしめながら、窓外の桃色した街を目に焼き付けた。

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