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夕型 第二楽章

「あと二時間半」

それが、残された時間だった。火が沈むのは七時。今は四時半。長いようで短い秋の一日が、そろそろ終わろうとしていた。

「本当に、火が沈むの?」
「そう。この星の火が、一斉にさよならするの。本当は秘密だけれど、あなたには教える。昔の人は、さよならするのがとてもつらかった。だから、生き物がいっぱい暮らせるようにって、おまじないをしたの」
「おまじない?」
「夜になっても、灯りをともせるように」

 火の子は、赤々とした髪を秋風に乱れさせた。そして、いつもやるように両手を空に広げると、ふうと海に向かって息を吐いた。ゴッホの渦巻きみたいな炎が、ザワザワと揺れる草原を、駆け抜けていった。太陽は水平線に向かって走れメロスをしていたし、青白い月は天の川で織姫と恋の競争をしていた。

 火の子が帰ってしまうと聞いて、わたしはとても残念に思った。火の子から炎の秘密を教わるために、幼い頃から師匠の元について、辛い長旅にも耐えてきたのだ。過ぎ去った年月を思うと、背中に背負った荷物はずっしりと体を押しつぶすようだったし、肩から下げた計算帳も六分儀も、腰にさしたナマクラの脇差も、何もかもが重かった。夕方の風がどうっと吹いて、草木や波が、壮大な交響曲を奏でた。

「では、せめてわたしに最後の火を授けてくださいませんか? わたしは、この草原で、夜になっても灯りをともしたいのです」

 火の子は、ちょっと意地悪な表情を浮かべた。彼女の白いシルクのような服から、パチパチっと火の粉が散った。

「あなたは、この草原で夜になっても灯りをともしたい? その理由はなに?」

 わたしは、手近にある木の棒を取ると、地面に二つの丸を描いた。一つはまん丸で、もう一つは少しゆがんでいる。わたしはその二つをつないで、大きな輪っかにした。

「太陽と月です」

 わたしが答えると、火の子はまたクスクスと笑った。しかし、今度の笑いには毒はなかった。まるで秋の野原に響き渡る虫の声のように、透き通った笑い声だった。

「あなたは、二つの輪っかで、この草原を囲んでしまうつもりなの?」
「そうです。二つをつなげると大きな輪になります。そして、この輪の中の草は光り輝くのです」

火の子は、それからしばらく黙っていたが、やがて静かにこう言った。

「月の光の輪にはタマムシの色があるけれど、太陽の輪にも色はなくて、ただ白熱な光だけが届くのよ」
「構いません。そのための体です」

 太陽が半円まで沈んだ。すると、空のあちらこちらから、シューンシューンと逆向きの流れ星が流れて、空に白い線を描いた。火の子の体も急に白熱を始めて、思わず気が遠くなりそうなぐらい凄まじい熱線を放ち始めた。

「おねがいします! どうか!」

わたしは、地面に頭をすりつけて頼み込んだ。火の子は、丸を描いて輪っかにするというわたしの計画を知っても、別段怒ってはいなかった。

「夜になっても、その輪を守りたいの?」

わたしはうなずいた。

「そうですか」

火の子はそうつぶやくと、草原の真ん中でコロリと転がって見せた。それからわたしの方を向いて言った。

「それなら、約束しましょう。あなたに明かりを授けます」

 それが最後だった。いつしか火の子は空の彼方で、わたしは高揚した熱い空気を胸いっぱい吸っていた。わたしは約束通りに、輪っかを草原のまん中に描いて、夜通しその輪を守り続けた。月が昇ると、月の光はタマムシのようにギラギラ光っていたし、太陽が昇ると、太陽の白い光がわたしの体を温めた。

 そしてついには、わたしの体は太陽や月と同じように光り始めたのだ。

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