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競技と審判

人間の限界

現在行われているパリオリンピックでも、誤審が話題となっている。多くのスポーツ競技には審判がおり、プレイにおけるジャッジを行う。誤審の問題は今に始まった問題でもない。かつては、人間以外に判断をできるものがおらず、ルール上ジャッジの権限を持つ審判がそれを行ってきた。ところが、技術の進展により、AIが人間の代わりに、それも人間より正確にジャッジすることができるようになった。すでにいくつかの競技においてビデオ判定が導入されたりしているが、制限もあり人間の審判がいなくなったわけではない。ビデオ判定によって最初の判定が覆ることはよくあることであり、すでに人間による正確な判断の限界であることを示している。それは、ボールなどを用いて得点を競う競技だけでなく、フィギュアスケートやスノーボードなどのように、技術点や芸術点などのような評価による競技も同様である。特にこれらの競技は、素人目には違いがさっぱりわからないこともある。また、ジャッジが数名おり、最高点と最低点を除いて計測するものもある。判断基準が同じであるのであれば、どのジャッジの点数も同じであるはずだが、そうはならないことからも人間の限界を示している。
大谷翔平の活躍によってさらに注目度が高くなったMLBでは、昨年下部リーグにおいてロボット審判によるジャッジが試験的に行われたが本格導入には至っていない。しかしながら、すでにテレビ中継などでは、テクノロジーによって視聴者にストライクゾーンとボールの位置がわかるようになっており、誤審が明らかになることがある。

審判は神か?

競技によっては審判が選手や監督などを退場させる権限を持つ。誤審だと思われるものに対して異議申し立てや抗議をすることはできても、場合によっては退場させられるリスクがある。異議申し立てや抗議さえできないものの典型例として高校野球がある。甲子園もシーズンを迎えているが、視点を変えてみれば、高校野球の異常さがよくわかる。最近になってやっと「坊主刈り」ではないケースも見られるようになったが、以前からスポーツ競技における「坊主刈り」は異様なものに見えた。なぜ「坊主刈り」でなければならないのかについて納得のいく回答を一度たりとも耳にしたことがない。スポーツマン精神と関連付けた言説も多くみられたが、こじつけに過ぎない。おそらくこれは軍国主義の流れを引きずっているのではないか。一人の個人としての人間ではなく、戦争における一つの駒としての一兵士。どこのだれかはどうでもよい(もちろんここには入らない一部上級国民とされる人たちもいた)。兵士は上官に異議申し立てや抗議をすることなど一切できない。上官の言うことがすべてなのだ。これは高校野球(野球に限らないのだが)における先輩後輩の関係にも似ている。審判は国家権力とでもいおうか。審判の判断は絶対であり、それに逆らうそぶりさえも見せたら退場させられるかもしれない。また、ガッツポーズさえ精神論から否定される。兵士は国家権力の命令に逆らうことなく自身の命を預けなければならない。個性を持つ個人を捨てさせるために「坊主刈り」にさせ、上からの命令に背くことなく従順であり、異議申し立てや抗議などもってのほかであることを全身にたたきこまれる。人間は社会的地位とは無関係に誰もが対等ではないのか。
高校野球ほどではなくとも、多くのプロスポーツ競技においても審判の権限は強い。MLBでもアウトかセーフやフェアかファールなどのビデオ判定の要求はできるが、ストライクかボールかについてはビデオ判定を要求できない。そのため、そのジャッジについての言動によっては審判が退場を宣告することもある。また、監督の審判に対する抗議なども場合によっては退場させられることになる。映像も残っており、もはや滑稽としか言いようがないが、あるチームの監督の言動に対して、審判が次に何か言ったら退場させるというような忠告をした直後に、その監督の近くにいた観客の言動をその監督の言動と勘違いして退場させたことがあった。
また、審判の誤審が試合そのものの展開(勝敗)を変えてしまうこともある。試合を楽しむために行った者としては、非常にいやな気分で帰ることになる。ストレス解消のためも含めて観戦に行ったはずなのに、さらなるストレスを抱えることになる。不愉快極まりない。
一部の人は、権力を行使し他者を支配することに喜びを感じたり、それによって自己承認する傾向がある。そのような人が審判や国家を担う人になることだけは避けてほしいものだ。

スポーツマンシップとは

実用日本語表現辞典によれば、スポーツマンシップとは「スポーツの競技者などが備えるべきとされる道徳規範や、その規範に準じる心構えなどの理念を指す語。スポーツマンシップの例としては、ルールを守ってフェアプレーに努める、競技相手や審判に敬意を払うといった理念を挙げることができる」という。審判に敬意を払うというのは、審判の間違いを文句も言わずに素直に受け入れることではない。シドニーオリンピックの柔道において、篠原信一が誤審による負けであったにもかかわらず、「弱いから負けた。それだけです」と言ったことを評価する言説が多くみられた。これはある意味恐怖である。明らかな間違いに対して「それは間違っている」と言えない、言わせない空気(構造)は、専制や軍国主義を彷彿させる。
今回のフランスオリンピックでも、試合に負け号泣した選手への誹謗中傷が多くみられた。このオリンピックで勝つことを目標として普通の人には耐えられない練習を積み重ね、不本意ながら負けてしまったことで感情があふれることは極めて人間的なことである。もちろん状況を踏まえる必要はあるだろうが、人間の本質にもかかわる感情表現さえしてはいけないものに意味があるとは思えない。スポーツやめますか?人間やめますか?ということか。
ルールを守ってフェアプレーのためには、ルールに則った公正・公平なジャッジが求められる。AI審判の導入による、プレイする側にも見る側にも誤審によるストレスのないスポーツ競技が待ち遠しい。


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