共産主義は悪か?

斎藤幸平の『人新生の「資本論」』がベストセラーになった背景には、学生運動が盛んだった頃にマルクスに傾倒した人たちがいるのかもしれない。日教組の大会では会場まわりに公安が配置されていたように、当時の教員のなかにはマルクスに傾倒していた人も多かった。学生運動にあれだけのエネルギーを注ぎ闘ってきた人たちが社会に出ていけば、大きな変革が起こるかもしれないという期待もあったかもしれないが、結果的には何も変わらなかった。その要因をここで分析するつもりはないが、資本主義社会(就職した企業など)に潰されたという側面はあるだろう。すでに既得権益を守る構造が出来上がっており、それを変えようとする者はことごとく潰される。現在では共産主義は悪であるかのような語りも多くみられる。それは、既得権益を獲得している権力者が共産主義者を悪であるかのように仕立て上げ、自分たちの既得権益を守るための構造を作り上げたことがあるだろう。
斎藤幸平の発言をすべて調べているわけではないが、彼も共産主義という言葉を使わないようにしているように見える(コミュニズムを使用)。これまでに構築された共産主義のイメージを回復することは困難であると考えているのか、共産主義の実現は不可能だがマルクスにはまだ可能性があるということなのかもしれない。
私自身マルクスの原著を読んだわけでもないし、読めたとしても正しく解釈できるかはわからない。ただ、重要なことはマルクスを正しく理解することではなく、現状の社会と照らし合わせて、未来の社会のために何が有効であるかをできるだけ多くの人が理解することではないか。
社会を変えるには政治を変えるのが効率、効果の面からも一番早い。政治をあえて難しいもののように見せ、専門家以外にはわからないものであるかのような印象を植え付けることにより、権力者が自分たちだけにとって都合の良いシステムを作り上げる。だからこそ、既得権益を守るためにあらゆる手段を使って政治を変えないようにしてきた。森喜朗の「寝ていてくれればいい」発言にみられるように、いかに政治に興味を持たせないようにするかに尽力してきた。
しかしながら、多くの人がそのことに気づき始めた。そのうよな状況で出された斎藤幸平の著書はかつてマルクスに傾倒した人たちを刺激したのかもしれない。

話を共産主義に戻そう。共産主義を批判する人たちは『共産党宣言』にある「武装闘争」や「暴力革命」の部分だけを取り出し、そこを強調して批判する。東大闘争の頃にも内ゲバなど暴力的な側面が見られたこともあるだろう。先述のように原著をあたっていないのでわからないが、マルクスは先制攻撃としての「武装闘争」や「暴力革命」を意図していたのだろうか。状況から鑑みれば、共産主義のために「武装闘争」や「暴力革命」を行使しなくとも、何らかの共産主義への行動を起こせば既得権益を守るために体制側こそがそれを「暴力的」に潰そうとしてくる。したがって、もし体制側が暴力を用いて潰そうとするならこちらも暴力によって抵抗するしかないということはありうる。
「武装闘争」や「暴力革命」を除けば、『共産党宣言』で述べられていることはとてもよい社会だといえる。「武装闘争」や「暴力革命」を除いて共産主義を目指すことも可能ではないか。体制側が圧倒的な暴力を使ってそれを潰そうとしない限りは。
ところがそれとは別の問題がある。それは、そもそも共産主義は、(現在の)人間には実現不可能であるということだ。
いまだかつて共産主義を実現した国家は存在しない。共産主義は最終的には国家という概念さえ消滅する。したがって、その社会(領域)のなかで、エネルギーや食糧などあらゆるものをそのなかで賄うことができる(完全自立)ようにならなければ、存続することができない。もうひとつ共産主義の実現には、強欲な人(資本家や既得権益を守ろうとする人など)がいなくなるということが前提となる。この一点だけでも共産主義が実現不可能だということができる。それにもかかわらず、「武装闘争」や「暴力革命」を前提に批判することの理由は、上記のようなやり方では自分たち(資本家や既得権益を守ろうとする人たち)自身を貶めるからにほかならない。
中国が共産主義だと思っている人がいまだに多くいるようだが、中国は共産主義ではない。共産主義は、資本主義から社会主義を経てその最終形態として共産主義となる。私有財産を認めないことが前提となる共産主義の実現のために、資本主義における私有財産などすべてを一度国家に戻しそこから公平、公正な分配や必要な生産を行うというような流れがある。これまで共産主義を目指した国々は、その初期も初期という段階で失敗している。つまり、一度あらゆるものが国家に戻されたときに体制側に権力が生まれ、その権力を持った人がその権力を既得権益として守るという極めて滑稽な状況を生みだした。人間の強欲さが人間の本性にかかわるものであるとしたら、人間に共産主義を実現することはできない。共産主義が悪なのではなく、人間には実現できないユートピアなのである。そして、既得権益を守ろうとする人たちに、都合よく利用されいるにすぎない。

斎藤幸平は自身をリベラル左派と位置づけ、脱成長コミュニズムを提唱している。まず、リベラル/保守、右派/左派のような二項対立図式を用いていることに問題がある。多様性が強調される社会において、いまだに二項対立図式を用いて思想を語ることの矛盾。それぞれの主題に対してあらゆる視点から考慮し、何が現時点における最良の選択かを議論することが重要であり、リベラルか保守かなど関係ないのだ。もうひとつの問題は、脱成長を掲げていることである。これまで好き勝手にやってきて、自分たちだけ勝ち逃げして若い人たちは我慢してくださいということの傲慢さ。二酸化炭素の排出の問題などは典型例である。そうではなく、成長によって二酸化炭素の排出を減らすという方向もある。多くの分野で取り組まれている二酸化炭素の排出量の削減は、技術革新という成長によって支えられているものも多い。
また、彼は資本主義を否定しつつ、自身は書籍がベストセラーになったことによって多くの収入を得ている。それを自分自身で寄付なり基金をつくるなりして再配分しているのであれば素晴らしいことだが、そのような話は聞いたことがない。資本主義のもとで稼いだ金をコミュニズム的な形で使っていることをアピールすれば説得力がある。

このように共産主義の実現の可能性は極めて低い。では、その過程にある社会主義、いうなれば最良の社会主義の可能性どうだろう。以前「第三の道」ともいわれ、欧州諸国でも取り入れられているものである。先述のように中国などが社会主義の初期段階で失敗した理由には、権力構造がある。これを打破するには、人に権力を持たせないことが前提となる。そして、世界はいまシンギュラリティの始まり迎えている。すでに指摘されているように、多くのお役所仕事は、アルゴリズムに乗せることが可能であり、そのほうが正確な処理ができる。生活保護の受給にみられるように、人が権力を持つことによって、正確なシステム運用が阻害されている。また、公金チューチューと揶揄されたように、公金の不正使用も人に権力を持たせることが原因である。つまり、権力の発生をAIによって抑制し、なお且つ人がもたらざるを得ない権力をAIが監視するシステムが構築できれば、最良の社会主義の可能性が見えてくる。このようなことを述べると、「監視社会」だと批判する人も多いが、我々はすでにあらゆる場所に設置されたカメラによって監視されている。それは犯罪の抑止という名目で推し進められ、今では誰も文句をいわない。であるならば、権力の濫用や公金チューチューのような犯罪を防ぐという意味では同様ではないか。


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