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世迷言|物語 百人百色
なには江のあしのかり寝のひとよゆゑ身をつくしてや恋ひわたるべき
難波の入り江の芦を刈った根っこの一節ではないが、たった一夜だけの仮寝のために、澪標のように身を尽くして生涯をかけて恋いこがれ続けなくてはならないのでしょうか。
起「なには江の」
小学生の夏。わしは、いじめられとった。
今でも、思い出したくない記憶なんやけど、1つだけは胸の中にいつまでも留めておかなあかんことがあってな。
誰にも話したことない話なんやけど、聞いてくれるか?
生い先も短い孤独な老人の世迷言かもしれんへんけどな。
昔の大阪の川は、とても汚れとった。
工場の排水を、そのまんま川に垂れ流しとったからな。
せやから、わしは今でも川に行くのは嫌いなんや。
汚いから嫌いなんか?やって。
ちゃうちゃう。川の真ん中にランドセルを投げられるからや。
………
「やめろやー!」
「ほな、取り返してみろやー」
学校帰り。僕から奪ったランドセルをいじめっ子たちは、ボールのように投げる。
僕は空中を飛ぶランドセルを追いかけていた。
「もう、飽きたわ。ほんじゃあ、返したるわ」
体の大きないじめっ子が、渾身の力で僕のランドセルを川に投げた。
「ああ…」
僕は、成す術もなく、その場にへたりこんだ。
「おい!取りに行かへんと、海まで流されてまうで!あはは」
そう言って、いじめっ子たちは、自分たちの家に帰っていった。
承「あしのかり寝のひとよゆゑ」
「任しとき!」
ふいに視界を遮った。自分のカバンを置いて、川に飛び込む女性が。
彼女は、泥のような川を泳ぎ、ランドルセルを手にして川岸に戻ってきた。
僕は、何事が起きたのか分からず、ただその場でへたり込んでいた。
彼女は、長い髪の毛から、ポタポタ落ちる水滴を気にするようでもなく、へたり込んだ僕の目の前に来て、ランドルセルを渡してきた。
「取り返してやったで、あんたのランドセル」
彼女は、片目を閉じてウィンクしたかと思うと、目に水が入ったようで、「いや、ほんま痛い!め、ほんま痛いー」って、笑っていた。
「えっと、これ使うて」
僕はランドセルを手に取って、自分のハンケチを渡した。
彼女は「ありがとう」とハンケチを受け取って、「あんた、ええとこの子なん?」って聞いてきた。
僕の父は、医者をしてる。だから、裕福ではあったのかもしれないけれど、顔を横に振った。
「男の子やねんから、ガツンって、強くならなあかんで!!」
彼女は、そう言って目元をそっと拭いて、ハンケチを返してきた。
スカートの裾を絞りながら、「じゃあ、行くわ」と彼女は言った。なぜか僕は、別れ際に彼女の名前を聞いていた。
「うち?うちは、きよこ。藤原聖子」
僕は、その夜、家に帰って、彼女を思い出すたびに、眠りにつくことが出来なかった。
転「身をつくしてや」
それから、時が流れても、彼女のことは忘れられなかった。
僕は、強くはなれなかったが、医者になれた。
あの時、彼女に出会ったから、僕は医者になれたと思っている。
どんな障壁があっても、どんなに困難であっても、どんなに川の流れが早くても、決めた瞬間に進める強さを貰ったから。
そして、彼女と、突然、再会した。
真夜中に。
「先生、受け入れていいんですか」
「受け入れてください」
私は、救急の受け入れを看護婦さんにお願いした。
事情は、救急隊員から聞いている。
マンションの屋上からの飛び降り。
名前を聞いて、驚いた。
藤原聖子。
同姓同名で違う女性だ。
彼女ではない。
僕はそう信じたかった。
両足粉砕骨折、内臓破裂複数、頭蓋骨損傷。手術は、かなりの時間を要したけれど、成功したとは言い難かった。
手術が終わり、彼女を病室のベッドに運ぶと、そっと意識が回復した。
「目を覚まされましたか?」
「うちは、まだ生きてるん?」
彼女は、天井を見て呟いた。
「ええ、なんとか一命を取り留めましたが、余談を許さない状況です」
彼女は、僕の声に眼球だけを向けた。
「そう」
彼女は弱弱しく、息を吐いた。
「安静にしていてください。必ず、僕が治しますので」
彼女は目を閉じた。
「うちは、強くなれへんかった」
その言葉を聞いて、咄嗟に「御身体に触りますので、ゆっくりお休みしてください」と答えてしまった。
僕は、いつまでも彼女を見ていたかったのだが、次の患者がある。まだ、彼女の次の手術が待っている。
僕が病室を退出しようとした時、「強くなったんやね」という声が聞こえたかのように思えて、後ろを振り向いた。
彼女は目を閉じていた。
結「恋ひわたるべき」
それから、次の手術を行う時間もなく、彼女は亡くなってもうた。わしは、彼女を助けることが出来へんかった。
なんで飛び降りしたのかは、その後に調べて少しは分かったんやけど、彼女は昔から自分が強くなりたかったのかもしれへんな。
みんな強うない。
まあ、わしも、結局。強くもなれへんかったし、守ることも出来へん人生やったわ。
ほんまに、すまん。堪忍な。
これで、ようやくあんたに言えたわ、おおきにな。
そう言って、老人は静かに目を閉じた。
誰もいない自室は、老人の声を闇に溶かしていった。
了
三羽さんの「百人一首で百人百色」の物語で参加させていただきました。
よろしくお願いいたします。
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