手が動くままに書いた雑記

 正直、この世は腐ってる。思い通りにならない現実は生きづらさを象徴して、働いても働いてもお金が貯まらないこの身と、努力しても埋まることのない夫婦の溝が象徴するように何の張り合いもない人生を今日も生きている。

コンクリートは固いか?土の上に歩きやすく歩道を制作し、自動車が安全に通るように大差な道へ設計され、雨水を側溝へ誘導するように緩やかなかまぼこ型のアーチを描いている。計算されている町の設計とは裏腹に、行き当たりばったりの己の人生を恨んでいた。恨んでいた?というのは表現つぃて間違っているだろう。何をしてもうまくいかない苦しみは自分の性なのか社会の性なのか決めかねていて曖昧な怒りをいつも内在しているから、何をしても楽しくなかったし、うまくいっているという気持ちはなかった。

今日という日を何とかやり過ごす。それだけだ。やり過ごした一日の終わりに安酒を飲んでタバコを吸う。これにもお金がかかっているとわかりつつもお酒とたばこはやめられない。それくらいしか楽しみがないのである。お酒に関しては、飲み終わった瞬間からもう明日からやめよう。そう軽く心に誓う。軽く心に誓って次の夜また安酒を飲む罪悪感。寿命を縮めても飲むその習慣は崩れることなく、虫歯のように体の内臓を蝕んでいく。今は分からない。答え合わせは20年後。今ではない。

今をやり過ごすことに精いっぱいだ。お腹がすけばドラッグストアで菓子パンを買い、ジュースは健康に悪いと知りながら、最近体にいいと聞いた豆乳を慰め代わりに飲む。お金は減っていく。仕事をして得るお金は年収にして250万もあればいいところだろう。早く転職しなければと思ってもう20年経ってしまった、40を超えると男には転職先がない。覚悟が決まらずしがみついた男の慣れの果ては、肌がしわくちゃで油ものばかり食べすぎたおかげでお腹は醜悪の模様を描いている。

子どものころに戻りたいか?そんなことはない・・・これまで後悔などしたことのない人生を歩んできた。後悔したことないわけではない。今までの人生を総合して悔いなくやってこれたということだ。自分は頑張ってる。なのに浮かない。仕事先がないからか、夫婦仲が上手くいかないからか?中学校になる娘が不登校気味で将来が不安だからか、PTA役員になったからか。違う。金がないからだ。金があればすべての悩みは消える。金だ。カネゴンだ。

家なき子を放送したのは1991年だっただろうか?カネゴンというウルトラマンの怪獣がいてお金を食べている。そのカネゴンを引き合いに出して幼き頃の安達祐実は大人になってしまった人間の形をした怪獣に話かける。カネゴンだ!お前らカネゴンだ!お金しか求めていない!人のことなんて考えていない。お前らカネゴンだ!!そう叫ぶ家なき子に同情の視線が集まる。そこで名台詞「同情するなら、金をくれ!」と叫び金をせがむがお前らカネゴンだと拝金主義に対して非難をした後に、同情するなら金をくれと自分が拝金主義に浸っているところを見ると、金のプールに溺れているのは大人も子どももない現代人たちすべてが溺れているのだという名台詞。ナイトプールにいてお酒を飲む爆美女がインスタグラムに写真を投稿しているが、あれもみんな溺れている。お金に溺れているのだ。

世の中は、腐っている。いつから人の心に水をあげなくなったのか。いつから政府は税金を取りすぎるようになったのか。不倫だなんだと騒がれ必要以上に断罪されるようになったのは何時からだろうか。2010年代iphoneの普及は画期的なポピュリズムの台頭を許したのだ。個人を全員で非難する構造は2010年代に入ってから肥大化している。人の記憶は薄れていくが、デジタル化された情報は薄れることなく残り続けていく。性欲がなくなったら男女平等ではなくなるだろうというのも真実に近いと思う。男女で平等な力比べをすれば勝つのは男性だ。男性は性的な弱みを握られているからこそ女性を立てる。女性を立てて手に入れたいものがあるからである。男性は力が強い、故に愚かだから、女性には勝てない。女性に勝てなくなったのは男女平等という意識が植え付けられたからである。近代社会の男女平等の原点はお見合い結婚をなくして両性の合意のものに婚姻を結ぶという恋愛が生まれたことによる、女性の市場価値の高まりにある。

男女平等というのは幻想だが、その魅力的な幻想はポピュsリズムを大きく動かす物語となる。日本という国の歴史に至っても幻想的であり、信じるという行為を持って事実だと認識する。一般の民は事実で動くのではなく、魅力的で空虚なファンタジーで誘導されるようになった。またそのファンタジーが魅力的過ぎて困る。

世の中は腐っている。その言葉通り、世界を転覆させてくれる何かを、誰かを一般人は願っている。それだけ不満がたまっているということだ。

腐っているのは果たして世の中なのか自分なのか分からなくなってくる。

家なき子では、空腹になった安達祐実に対して榎本加奈子が泥団子を食え!という場面があるが、泥団子で空腹を満たせばいいんじゃない?という発想はマリーアントワネットの「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」というセリフの様である。国民よ、コメが高くなったからドラッグストアで16円で買えるうどんがあるから毎日それを食ってろ。私たちは料亭で懐石料理に舌鼓を打つ。もしくはワインバーでおしゃれに雰囲気も楽しみながら酔っ払うよと言いたげなテレビの向こう側がしゃべっているようだ。

少しでも暮らしをよくしたいと頑張る副業に取られる時間で人生で一番大事だと思われる子どもと一緒に過ごす時間を取られ、8時間労働をした後にポイ活をして1円、2円をコツコツとためる。そんな生活に誰しもが疲れてきたのではないだろうか?今日も副業で何円稼いだ?億り人というが1億持ってる人はどれだけいるのだろうか?資本主義をあきらめ共産主義に走ろうかという人がいるのもうなずける。資本主義はまともなことを言うが結局は持たざる者には不幸が重なる。アメリカと日本が実施しているトリクルダウンは怒ったことがないにもかかわらず、雫が垂れるのを今か今かと待ち望んでいるのは資本家ばかりだ。

蜘蛛の糸は切れた。地獄に落ちるのは誰かという問いに対しても現代では意味をなさない。中世では神様と民は結ばれていただ科学のはさみはその赤い糸を切ってしまったことを現代人は知っている。地獄に落ちるのは紙を信じない拝金主義者の現代人全員ということになる。心の時代と言って個性を伸ばそうとした教育は基礎学力を落として、体力のない人間を創り出した。慌てて、詰め込み教育に戻したのは記憶に新しいところだ。歴史が今の教育を作っている。蜘蛛の糸はまだつかめるのだろうか?

新しいことをやろう。そういう前向きな気持ちになるのは何時だって春だ。長い冬に丸まって熱を貯めて我慢してきたら、暖かな春を迎えると自然とこれまでできなかった新しい経験をしたくなってくる。花が咲いて世界が色付くころには、なんだか自分の心まで色付いていくような気がして。自分の人生まで色とりどりになるような気がして。心が浮き浮きとしてくる。

世の中は、腐っている。

春を待っている。

雑記でした~~。

ではでは。

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