戦争を考える 047 いつか来た道?
戦争はいけないが、無くならないという現実がある。さて、どうする?
戦前、戦中の日本の状況を実体験している人々が少なくなり、残念ながら、活字、映像で窺うしかない。亡父は、戦中の話をほとんどしなかったが、遺品整理の時、軍隊手帳を初めて読んで、輸送船でフィリピンに送られる途中、船団が攻撃されて、途中で内地に引き返したことを知った。帰還後、福山で輸送の任務に就き、当地で終戦を迎えた。海で沈められたかもしれないし、広島の原爆で死んでいたかもしれない。亡母は、東京での空襲警報、機銃掃射、すいとん、買い出し、新円切り替えの話を何度もしてくれた。沖縄のひめゆりの人々のことを思うと、あまりに申し訳なくて、沖縄には絶対に行かなかった。両親の実体験が生々しく、いつしか自分で、かつての時代の諸相を知りたくなり、それなりに司馬遼太郎、児島襄を読んだのだ。
反戦、左翼史観、自虐史観を奉じる人たちは、日本政府が防衛力強化、集団的自衛権等への動きを少し見せただけで、ご注進ご注進よろしく、国内に報道するだけでは足りず、中共、朝鮮半島へと騒ぎ立てるのが、習い性となっているようだ。その精神構造が、どうも理解できない。
彼らは、いつか来た道、という表現で、言論弾圧、ファシズム、軍国主義、徴兵制に、すぐに持っていかれるみたいな論調を張るようだが、そろそろ止めて欲しい。その空想的平和観、妄想的現実感が間違っていないかどうかを、今一度、謙虚に検証していただきたいのだ。逆に、いつか来た道という表現を、彼らにこそお返ししたい。
何を言いたいのか?それは現今、報道等では、ロシア寄りの言論が封じられており、それこそ、戦前の状況に酷似しているように感じられるからに他ならない。ウクライナが絶対善だと言い切れる判断しか選択肢がないのが、大問題ではないかと思うからだ。考え方の中に、多様性、複数性が排除された瞬間、色々と判断し、選択しようとする権利をたちまちに奪い、しかも大多数の論調に従わない人は信じがたいと見なせば、それこそ、いつか来た道を突き進んでいるではないか、ということなのだ。どうか、思考のプロセスを飛ばさず、選択肢は幾つかあるという寛容さを忘れないでいただきたい。戦前の人々は愚かであったと結論する前に、もしかしたら、自らが恐るべき陥穽に入っている可能性もあるという余裕を、持つべきものだと信じている。
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