ジャズに感じて 012 ラーギャ?
まあ、ギャラの話は、ちょいと迷いましたが、読み流してもらえれば幸いです。あまりに下手なドラムでも、中学3年の時、何千円?かもらいました。恥ずかしかったですが、まさに初めての経験。ヴォーカルは、宝塚出身の牧美佐緒さん(通称?コンちゃん!)。「ショウボート」のエヴァ・ガードナーとか、「水着の女王」のエスター・ウイリアムズのイキフン?もし聞こえたら、あたしは、あたしよって、怒られるかも…。煙草の吸い方が、また絵になるんですわ。リハをやって、ボサノバとかは、何とかなりましたが、難物は「Fever」でしたね。今ならば、多少はできたでしょうが、当時は、どうすればいいのか、本当によく分からなかった。ペギー・リーのを聴かせてもらいましたけど、もう情けないやら、途方にくれるやらで、牧さんもあきれていたと思います。僕ちゃん?おもちゃのお猿さん?みたいな?牧さんが、最初の歌伴!うわっ!やばいよー、やばいよー!
あの時、印象的だったのは、楽屋で着替える踊り子さんを、ちらっと見てしまい(トムしてない!信じてプリーズ!)、そりゃ、15歳だったんだから、衝撃的!後年、フロイトが列車のコンパートメント内で、母親の着替え?を見たことで、夢とかを、性的な欲望に結び付ける心理学?を提唱したことを知りましたが、あたしゃ、フツーの人間なので、青春のほのかな一コマざんす。あえて言えば、ミュージカルダンサーのコスチューム、網タイツ?が好きになったのに、多少の影響を与えたのか…。話、逸れすぎ。
大学ビッグバンドでは、ギャラが出ましたが、それは楽器の購入とか、車両費用とかに使われてました(でもたまに、飲み代がダータ)。ただコンボの仕事が入ったら、一人G千とか、ほんのたまにC万もらうと、(昭和50年前後)ワンダフル!ドラムを運ぶ車両代等を引いても、有難い!でもホテルの中、ドラムセットを台車で運び、終わったら片付けですから、やはりピアノと違って大変。結婚式、パーティー、特に12月は、まさに書き入れ時。メッパ(目黒パークボウル?)、大手町サンケイホール、オークラ、帝国の今のタワーに建て替えられる前、学生のダンパ?をするルームがあり、レインボールーム?とにかく色々な場所で、よく演奏しました。或る有名な作家さん(その方の息子さんと同級生)と面識があり、帝国ホテル?のトイレで手を洗っていたら、こちらが気がついて、ご挨拶したら、君、何でここにいるんだって聞かれて、バンドの仕事ですって答えたら、あっ、そう…と。
どこでも、こちらはスーツにネクタイで、チークとか、色々してるのを、必要な時に、音を出すだけ、眺めるだけ。女性との付き合いもままならず、とにかく忙しかった。一年留年したんだから、アホですな。確か、航空業界のパーティーで、くじ引き?ビンゴ?で、一等が世界一周の航空券。もうあんな羽振りの良い時期は、二度と再び来ないか?今は昔で、みんな倹約倹約!
社会人になっても、結婚式の仕事が来たりして、都合をつけて受けてました。最高で、一人E万ってのが、ありました。ご祝儀。さすがに営業の仕事になってからは、止めました。ですから、音を出すこと即お金をいただくというのが、あたしゃ自然でした。まあ、酒を飲んだり、レコード、本を買ったりして、お金は消えたと思います。でもギャラのニ割?は貯金してたかも…。数年前、亡くなられた女性ジャズヴォーカルの方と飲んだ時、昔は、ギャラがG万、そのうちE万で、あっという間にD万C万?そのうち、どうなっちゃうのかって、仰ってました。まさにデフレの時代。いくら政治家が、バラ色の公約を訴えても、嘘八百か?ということで、若い方々には、参考にならなかったでしょうが、お読みいただき、ありがとうございました!