雑踏
かつて自分は、適齢期の男女なら組み合わせればなんとでも愛し合っていけると本気で思っていました。
稀にサイコパスもいるのですが、大抵の場合、みんなそれぞれに良心をもち、法律をまもり、衣食住を営む特徴を備えているので、それを踏まえて一般論から相手のことをよく観察して、適応してゆけばいずれ愛着が生まれ、それが愛情に変わるのだろうと。そして、その行為のタイミングや組み合わせを運命と呼び、正当化すればなんだか快感を得ることができるらしいのだ、と。
現代日本社会に生まれついた人間の脳とは、概ねそういう仕組みなのだなと思っていました。テーマパークに行列をつくるカップル、イオンモールにいる夫婦とを交換したとしても、インドアとアウトドアを交換しても、それなりに繋がり、家族になりそれなりに仲良くやってゆくのではと思っていました。
正誤はさておき、ひとは変化するものです。
わたしは置かれた環境において出会った人たちから多くを学んできました。
あまり組織には執着がわかないというか、天職もなく主体性もないままで、話をきいてないだとかうわの空だとか言われて笑われていました。こころがないとかバカなふりをしているとか言われたこともありました。
私だけを愛しているのは私だけなんでしょう。
鏡のようなものです。
君だけを死ぬまで愛しているという美学です。美しいものだけみたいひとはみていたらいいでしょう。日常や家族や友人をアクセサリーにして。平凡な日常は努力と才能と運の良さの賜物です。最愛の人ヒーローヒロインに当てはめるには最適です。結婚制度は定型発達の人々の多数決です。結婚してみたらわかります。唯一無二にひとはロマンを抱きます。よかったです。信じるものは救われるシステムです。
そういう類のみなさんは幸せになれます。
わたしは肥大化した自己愛ばかりのナルシストで不安障害なので諦めつつあります。
唯一の希望があるとしたら、こうやって誰にも頼まれもしないのに書き続けることだけです。
世界はひろがる、認知スタイルの違いによって、無関心のなれのはて、雑踏のなれのはて。