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【読書記録】『ブラジャーで天下をとった男 ワコール創業者 塚本幸一』

 京都駅を過ぎた頃、東海道新幹線の左車窓を眺めるととある会社の本社ビルが見えてくる。日本を代表する下着ブラド「ワコール」の本社である。
 さて。日本現代史を俯瞰し、戦後日本の復興を支えた存在として、大正・昭和初期生まれの起業家は大きい。サントリーの佐治敬三、京セラの稲盛和夫は著名である。特に、稲盛和夫氏は2022年までご存命であったことから、記憶に新しい方も多いだろう。
 では、「塚本幸一」と聞いた時、どのような人物かを説明できる人はどのくらいいるのだろうか。かくて、私もこの本に出会うまでは、名前でしか知らなかった。
 本作は戦後日本、女性の社会進出が進んだ時代に、 「下着」というビジネスで日本のみならず、世界に羽ばたいた「塚本幸一」を描いた作品である。

近江商人の血を引く塚本幸一

 「近江商人」
 日本を代表する商人集団であり、かつての十大商社(三菱・三井・住友・伊藤忠・丸紅・日商岩井・トーメン・ニチメン・兼松江商・安宅産業)のうち、4社(伊藤忠・丸紅・トーメン・兼松江商)は近江商人にルーツを持つ。また、「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」の経営哲学もよく知られている。
 かくて、塚本幸一も近江の名門「塚本家」出身であり、祖父 塚本粂次郎(初代)は、塚本一族でとりわけ成功した「塚本定右衛門」に次ぐ「塚本仲右衛門」の3代目の弟にあたる。
(なお、東証スタンダード上場のツカモトコーポレーション(8025)の創業は「塚本定右衛門」である)
 近江商人は本宅を近江に置きつつ、各地に進出することで影響力を増してきた。塚本幸一は近江商人の血を引いている一方、その出生地が仙台なのも父 粂次郎(祖父と同名)がそうした近江商人として仙台で商いをしていたからである。
 塚本幸一の出生に際し、「荒城の月」の作詞としても知られる詩人 土井晩翠が
「一の国の調べに生まれきて 花壇の奥に幸まさるらん」
と祝いの贈歌を残していることも、塚本家の存在の大きさがわかる。

近江商人の士官学校とインパール作戦

 「マスコミの帝王」と呼ばれ、「駅弁大学」や「太陽族」など数多くの流行語を生み出したジャーナリスト 大宅壮一氏は、滋賀県立八幡商業学校を「近江商人の士官学校」と呼んだ。
(短命内閣として知られる宇野宗介氏の出身校でもある)
 諸事情で近江に戻った塚本幸一もまた、「近江商人の士官学校」に進学、最終的には雄弁部に所属したようである。
 しかし、八商を卒業した塚本幸一に待ち受けていたのは、20歳の徴兵検査であった。時代は1940年、日中戦争が泥沼化しつつあるなか、アメリカとの対立も激化している時運である。
(とはいえ、青年塚本幸一は青年期特有の正義感から徴兵免除は嫌だったようである)
 徴兵検査に合格した塚本幸一は、同年12月に入隊、初陣は1941年の浙東作戦であった。本作によればこの作戦にて九死に一生を得たとのことである。
 さて、塚本幸一の人生の分岐点は悪名高き「インパール作戦」であろう。
1942年5月、日本軍はビルマを占領する。対するイギリス軍はインド東北部インパールに拠点を移し、国境外からの執拗な攻撃を加えつつ、援蒋ルートを維持し続けた。1943年に牟田口廉也陸軍中将率いる第一五軍によるインパール攻略が認可されると、翌44年3月から作戦が始動する。
 インパール作戦についての評価は一部議論こそあるが、楽観的な計画であったことは否めなかった。厳しい環境に加えて、食糧不足やマラリアなどが兵士たちを襲ったわけである。塚本幸一もまた、後世に「白骨街道」と呼ばれる道を撤退していったわけである。
 部隊55名に対し、生存者がわずか3名であったことが、その悲惨さを示している。

創業と上場

 1946年6月12日、復員船が浦賀港に入港、塚本幸一は5年半ぶりの祖国に帰還する。 驚くべきことに、同年7月には個人商店を創業し、商号を「和江商事」とした。
 「和江」とは父 粂次郎の雅号であり、出身である江州から「江州に和す」を意味する。また、「長江(揚子江)で契りあった和」としても読め、長江を遡り、中国の歩兵第六◯連隊に配属されたことを社名に込めている。
 「和江商事設立趣意書」は以下の文面であった。

終戦以来道義地に落ち、人情紙の如く、復員者の益々白眼視されつつある現在、揚子江の滔々として絶ゆる事なく、悠々天地に和す。彼の江畔に契りを結びたる戦友相集り、明朗にして真に明るい日本の再建の一助たらんと、茲に、婦人洋壮装身具卸商を設立す。

 創業から数年間は人手不足・資本不足・取引先不足に悩むわけであるが、近江商人として真っ当な商売を志し邁進したようである。
 人手では、のちに両者とも副社長となる、八商の同級生 川口郁雄氏と中村伊一氏との再会。「四条河原の決戦」と言われる京都高島屋でのライバル社との販売競争で活躍する内田美代氏、デザインに革新をもたらした下田美智子氏、生産体制を抜本的に変えた渡辺あさ野氏といった「女傑」の存在。縁戚で、関西百貨店進出の立役者となった奥忠三の活躍などがあった。
 資本に関しても興味深い記述がある。1950年から始まった朝鮮戦争は、朝鮮特需をもたらした。売上も好調、利益も出ているなかで一番恐ろしい「資金繰り倒産」の危機に陥ったのである。詳細は本書を読んでいただきたいが、取引先でる高島屋に空手形を切ってもらい一命を取り留めた歴史がある。
 取引先関係では、川口氏の難攻不落の東京三越に対する足掛け5年の「三越通い」や塚本幸一の欧米視察が功を奏し1957年に三越との取引を開始することができている。

 上場に関しても非常に興味深い内容がある。
 日本証券史に造詣のある方ならご存知だと思うが、1961年から「上場ブーム」が起こり始めていた。1960年代の会社四季報を見ると分かりやすいが、この間に上場企業数は大幅に増加している。(特に、戦後に創業した企業が多く上場している)
 1957年に社名を「ワコール」に変え、勢いに乗っていたワコールも然りであった。
 1964年1月に中村伊一氏をリーダーとする対策チームが発足、上場基準未達であった売上と資本金を積み増すことに成功し、同年9月に東京・大阪証券取引所2部、京都証券取引所に上場を果たした。
 上場挨拶文の一節に、以下の文言がある。

世の女性に美しくなって貰うことによって
広く社会に寄与することこそ
わが社の理想であり目標であります

 ここに、女性活用を積極的に推進した塚本幸一率いる「ワコール」の上場が果たされたのである。
 なお、上場した1964年の下半期からは、オリンピック景気の反動による不況が待ち構えていたことから、絶妙なタイミングでの上場となった。

日本の下着企業から「世界のワコール」へ

 上場した1964年は、ワコール創立15周年でもあった。15周年に際して制定されたのが「社是」であるが、「世界のワコール」という文言を入れることに対して議論があったという。結局は、1970年代に達成を目指していた「海外市場の開拓」を完遂するべく、塚本幸一が押し切る形で採用されたというが、その社是は以下の通りである。

社是
わが社は相互信頼を
基調とした格調の高い
社風を確立し一丸となって
世界のワコールを目指し
不断の前進を続けよう

 1967年には、冒頭に新幹線の車窓から見えた場所に新本社が竣工した。「世界のワコール」として最大の広告塔になるとの確信を持って、新幹線から見える位置に建設したという。
 1970年の大阪万国博覧会では、リッカーミシンと共同でパビリオン運営を決定。「ワコール・リッカーミシン館」として「愛」をテーマに 「万博唯一のヌード」との触れ込みで展開、 2億円ものPR費用がかかったが、その効果は絶大であった。
 なお、万博の前年には大台である売上高100億円を突破している。

1971年には、韓国・台湾・タイに合弁を設立し、東証・大証で1部に指定替えをしている。

もう一つ、「世界のワコール」を確固たるものにするためには、アメリカ進出が必要であった。1977年にADR(米国預託証券)を日本企業で8番目に実施、アメリカ企業との提携を模索する中で、最終的には下着メーカーのティーンフォーム社を買収する。当初は業績が振るわず苦しい状態であったが、アメリカ景気の回復と共に躍進するのであった。

あとがき

 「塚本幸一」とインターネット検索をかけると検索上位にはウィキペディアの記事が出てくる。

 しかしながら、その分量は少なく、「塚本幸一」という名創業者を理解することはできない。「女性活躍」や「男女同権」が叫ばれて久しいが、その叫びは「政争の具」と化しつつある。終戦後の日本経済を「ブラジャー」から変革し、日本の経済界を支えてきた「塚本幸一」の人生を深く理解することが、今一度必要ではないかと感じる次第である。

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