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誰もが思考パターンを選択している―楽観主義「選択」のススメ
最近「オプティミストはなぜ成功するか」(マーティン・セリグマン著)という本を読みました。この本の内容は、以前読んだ別な心理学系の本と重なるところがあったので、この2冊の本を踏まえて私が個人的に考察したことを、2025年1本目の記事にしようと思います。
書籍の紹介
こちらはアメリカの心理学者の著作です。私が今参加している木下斉さんのVoicyビジネススクールであるこちらの配信で「メンタル・タフネス」を考察するための課題図書1冊目として紹介されたものです。メンタル・タフネス=精神的な強さやしなやかさは、ビジネスの場だけでなく、日常生活全般をwell-beingに生きるために備えておきたい考え方だと思います。この本は、現代社会に蔓延する悲観主義に対して、楽観主義を取り入れるためのヒントを提示しています。
悲観主義vs楽観主義は、選択可能な「説明スタイル」
この本のメッセージのうち、個人的に特に重要と感じたのが、悲観主義と楽観主義は、単なるその人の性格ではなく、その人が不幸な出来事に遭った時に自ら選択している「説明スタイル」である、ということです。性格を変えることは容易ではないかもしれませんが、「説明スタイル」(=起こった出来事に対して後付けで行う自分なりの解釈、と理解しています)であれば自分の意志次第で選ぶことができます。この本の著者は、悲観主義傾向のある人は自身の説明スタイルを楽観主義的な考え方に選択し直すことが、人生を好転することに繋がると説きます。
上記に加えて私が思ったのは、そもそも悲観主義的な傾向のある人も、実はその人自身が過去において自ら悲観主義的な思考を選択してきたから悲観主義的になっているのではないか、と言うことです。この仮説は、以前読んだ下記の本が基になっています。
この本の冒頭では、こんなことが語られています。
・人は誰しも客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいる
・今のあなたが不幸なのは、自らの手で不幸であることを選んだから。不幸であることが、自分にとっての善(=自分のためになること)だと判断したから。
・幸せになるために最初にやるべきことは、今のライフスタイル(気質、性格)をやめるという決心。
上記の「嫌われる勇気」において使用されている「ライフスタイル」という言葉は、「オプティミストはなぜ成功するか」における「説明スタイル」という言葉に重なります。この2冊の本を踏まえて考えると、何か不幸な出来事が起こったとき、その事実をどう解釈するかはその人の「選択」次第であり、その選択によって人は幸せにも不幸にもなる、という解釈になると思います。
なぜ人は悲観主義に走るのか?
不幸な出来事に遭遇した時、私含めてネガティブな考えが増幅する人は少なくないと思います。では、そもそもなぜ人はこのような悲観主義的な思考を生んでしまうのか?
よく言われているのは、人間の生存本能によるというもの。つまり、原始時代において、人間は常に外敵や自然界の脅威と隣り合わせ。このような自分の生存を脅かす存在から自分の身を守るために人間が身に着けたのが、悲観主義的な思考、というものです。
さらにこの「オプティミストはなぜ成功するか」の本の中では、現代社会においても悲観主義が役立つ仕事がある、と紹介されています。それは、鋭い現実感覚を要求される、また専門的な技術を基に慎重さが求められる仕事です。その一つとして紹介されているのが「財政統制・会計」に関わる仕事。私の本業は税務関連の仕事なので、この本で言うところの悲観主義が役立つ仕事に該当します。笑
悲観主義と楽観主義の使い分けが人生を好転するカギ
つまり、世の中には悲観主義が役立つ場面もあり、重要なのは、場面に応じた悲観主義と楽観主義の使い分け、ということになります。「それができれば苦労しないよ」という声が聞こえてきそうですが、その試行錯誤のプロセスを経験しながら学びを得るのも人生の醍醐味ではないか、とも思うのです。
目の前の「事実」を変えることはできない。ただ、その事実の「解釈」の仕方を変えることはできる。その意味で、人は誰もが自分なりの意味付けを施した主観的な世界を生きており、同じ事実を前にしたとしても、人によってその解釈=意味付けの仕方は異なる。
理屈では分かっていても、現実ではポジティブな意味付けが難しいことも多々あります。その原因の一つに、時間と心の余裕の欠如があると思っています。2024年は、いかにして自分に時間と心の余裕を確保するかを特に意識した一年であったと感じています。2025年は、確保された自分の余白を利用して本格的に行動を起こす年にしたいと思います。