Memory Train「準急ひかり」
昭和30年代というのはなぜあんなにも混んでいたのだろう。休みになれば映画館は場内のドアが閉まらないほど客が詰めかけたし、例えば別府温泉などいまでは考えられないほどの人々が押し寄せた。家族旅行と言えば別府、会社の慰安旅行といえば別府。山口県の西の端、下関はそういうところだった。また、会社の慰安旅行といえば家族同伴が通例だった。だから社員5人の会社でも総勢30人近くなることもあった。
こうして多くの人々が正月などに別府に集中するものだから、道中は大変なことになる。特に帰りが。行きは切符の手配などは地元で済ますわけだから問題ない。問題は帰りだ。その頃は「みどりの窓口」などの予約システムはないから、誰かが前日あるいは当日に列に並んで「下関 急行 大人10枚 子ども20枚」と申し込むことになる。望む急行には客が集中していて切符がとれない。といってもう一泊するわけにはいかない。あすは仕事だ。
「仕方がない。タクシーで帰るか」
別府から下関へ、タクシーである。距離は100キロ以上ある。道路の整備された今なら、あっという間だがその頃は市内こそ舗装されていたが、市と市の間は未舗装が多かった。タクシーを4台呼んだ。ピンクのキャデラックが来た。当時のタクシーというとニッサンやトヨタの箱型を想像するだろうが、なにせここは「東洋一」の一大歓楽街だ。タクシーもテールフィンがピンと伸びた流線型の外車だ。
私たちは出発した。快適に別府市内を抜け、宇佐方面に向かった。そのうち道は急にデコボコになり、サスペンションのやわらかいキャデラックは大きく左右に揺れた。しばらく走るとタクシーは急停車し、運転手がドアを開けて出て行った。工事のヘルメット姿の人と話している。戻ってきた。
「この先は工事中とかで、このキャデラックは車高が低くて路面にお腹をこするので」
「それで?」
「すみませんがここまでにしてください」
というようなこともあった。
「おばあちゃ~ん」「おばあちゃ~ん」
娘の叫び声が聞こえる。別府から乗った準急ひかりが小倉駅に着いた。下関へは次の門司を過ぎ、海底トンネルをくぐればいい。もうすぐだ。列車が小倉駅に着く前に車内アナウンスがあった。「当列車は、次の小倉駅で門司港行きと博多行きに切り離します。前2両が門司港行き、後ろ4両が博多行きになります。お乗り間違えのないようお支度ください」。つまり小倉駅で列車は西行きと東行きに分かれるのだ。
私たちは寿司詰の車内を押分け押分け、どうにか前2両に移った。列車の切り離しが終わり、博多行きが先に出発した。「おばあちゃ~ん」。その声は博多行からした。「あやこ~」「あやこ~」。その声は私たちの乗った門司港行きからした。ふたりは博多方面に向かうはずだったのか門司港方面だったのか。それはわからないが、見事に切り離されてしまった。
昭和30年代は多くの人が限られた時間にある場所に集中し、交通インフラがそれに追いつかない時代だった。それでも人は行楽地に押し寄せ、モノクロの写真をアルバムに貼りつづけた。その頃アルバムというものは厚くなるべきものだったのだ。
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